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かぞえきれない君とのすべて【完直】

 
 
 
 
 
 彼との出会いを思い起こせば、それはもう暫く前のことになる。
 去年五月の半ばになろうとするころ、僕はある事件を追っていた。
 その事件の被害者と推測され、実際にその通りとなったのが、彼――――巽完二だった。
 
「君に興味がある」
 
 そう、声を掛けた。このときはまだ、僕の『興味』とは彼が、その事件の関係者になり得る人物だからという意味合いだったが……事件が収束した今。
 僕の『興味』は、それとは異なる意味へと変化しようとしていた。けれど、僕にはタイムリミットが迫っていた。
 ……新たな事件の依頼による、転校というタイムリミットが。
 
 
「おっはよ、直斗くん!」
「うわっ!?」
 
 下駄箱から上靴を取り出そうとしたそのとき、背中を襲った突然の衝撃に僕は思わず声を上げた。
 視界の端に揺れる胡桃色のふわふわとした長い髪の毛。――――久慈川りせだ。
 
「おっ、おはようございます。久慈川さん。今日は登校できる日だったんですね」
 
 驚いたことで加速した鼓動を落ち着けようと、僕は深呼吸をしてから振り返る。僕の首元からパッと手を離して、彼女はその端正な顔ににこりと笑みを浮かべた。
 
「うんっ、そうなの! 最近だいぶ忙しくなってきたけど……やっぱり、学年が上がる前に顔を出しておきたくて」
 
 僕が靴を履き替える間に、彼女はいつもと変わらずやや早口にそう述べた。髪の毛が揺れるたびに、女の子らしい、甘い香りが鼻腔をくすぐる。それはきっと、シャンプーのにおいではなくて……そう、香水とかフレグランスとか、その辺りの香りだろう。
 
 (可愛いな……僕にはつける機会、なさそうだけど)
 
 コロコロと表情を変えながら、身近で起こったことを話す久慈川さんに、僕の顔も自然とほころぶ。
 正直なところ、女の子らしい女の子は以前までとても苦手だった。メイクとか、ファッションとか、知識はあるものの最新の話題には疎いし、矢継ぎ早に繰り出される会話に辟易することもある。
 けれど、久慈川さんに出会って、そして仲間と呼べる人たちと出会って、僕の中の偏見やアレルギーみたいなものは少しずつ消えてきている。
 
「あっ、完二ーっ! おっはよー!」
 
 久慈川さんの声にハッと意識を戻した。彼女が手を振る廊下の向こうからノシノシと歩を進めてきたのは、巽完二だった。僕はビクリと体を伸縮する。巽くんは猫背気味の姿勢をゆっくり起こすと、「おう」と、片手を上げた。
 
「アンタもちゃんと学校に来てんじゃん! なーんか登校してないんじゃないかって、勝手に心配してたよ」
「うるせ。一学期、サボりまくってたせいで出席日数足りてねえんだよ。お前だって似たようなモンだろ、りせ」
「そうなんだよね~。でもまっ、なんとかなるでしょー」
 
 そう言って、久慈川さんはケラケラと笑った。巽くんは首筋をポリポリ掻いて、ふいと僕を見た。
 
「おっ、おはようございます。巽くん」
「おっ、おお、おう。はよ」
 
 視線が合ったのがなんだか気恥ずかしくて、僕は帽子を目深に被って目を逸らした。
 ……ああ。どうして僕は久慈川さんのようにできないんだろう。
 お互いの名前で呼び合う二人とは対照的に、僕と巽くんはいつまでも他人行儀な雰囲気が抜けない。僕は久慈川さんのように気軽に話しかけることはできないし、巽くんも僕との会話は早く切り上げようとしているように思えるし、何だか自然と距離を作ってしまう。
 
「そういえば聞いた? 鳴上先輩のこと」
「ああ、決まったんだってな。帰っちまう日。……わかってはいたけど、早すぎだぜ」
 
 鳴上悠先輩は、僕ら特別捜査隊のリーダーで、寡黙なのにチームを引っ張ってくれる頼れる先輩だ。僕が八十稲羽に来る少し前、家庭の事情で一年間だけこの街で暮らすことになったのだという。その一年間の期限が、今月で終わるのだ。
 
 (……僕も)
 
 僕も、今月までだ。この八十神高校に、八十稲羽に居られるのは。なのに、僕はこのことを誰にも打ち明けられていなかった。鳴上先輩の転校で寂しさに肩を落とす仲間たちに、自分もだなんてとても言い出せない。けれど、いつかは言わなければならない。それが今、この時かもしれない。
 
「あっ、あの……っ」
 
 勇気を出して切り出した僕とほとんど同時に久慈川さんが体の正面で両手をパンッと重ねて、口を開いた。
 
「ねねっ、放課後さ。三人で愛家行かない? このごろ食べてないからどうしても食べたくてさ~。ねっ、行こうよ!」
「えっ、あっ、はい。いいですけど……」
 
 自分の間が悪かった。それでもまた機会があるだろう、と考えなおして僕はそう答え、取り繕った。それに忙しい久慈川さんに会うチャンスはなかなかないのだから、一緒にご飯を食べる機会を無にしたくはない。切り出すのはその時でもいい。
 巽くんは、と彼を見上げると、彼は何か思案するように斜め上の天井を仰ぎながら首筋を摩った。
 
「あー……」
「なーに迷ってんのよ? あっ、わかった! 直斗くんが一緒だから照れてんでしょ!」
「なっ!? ばっ、ちっげーよ!」
  
 久慈川さんの言葉に、巽くんの顔は真っ赤に染まり、両手を大きく左右に振って否定した。彼のその様子に、僕の胸は少し軋んだ。と、同時にその場の空気を読んだかのように、廊下に予鈴の鐘が鳴り響く。
 
「あっ、やっば! じゃあ、直斗くん。放課後、よっろしく~」
 
 そう言って、久慈川さんは笑顔で僕に手を振ると、自分のクラスへと戻っていく。
 
「あっ、はい! ……巽くんもそれじゃ」
「……おう」
 
 僕が言う前に既に歩き始めていた巽くんは、背を向けたまま、久慈川さんとは対照的に、ひらひらと力なく片手を揺らした。
 
 (また、か)
 
 僕は遠ざかる彼の背中を見つめた。
 ……やっぱりそうだ。巽くんは僕と居ることを避けている。僕と話すときの彼は、久慈川さんのときとは違って、よそよそしくて挙動不審だ。彼や久慈川さん、そして特別捜査隊の面々と行動を共にすることになってもうだいぶ経つのに、常識では考えられないような事件を一緒に解決した仲間であるのに、僕と彼との間には、他の皆とは違う、大きな溝がある。……とは言っても、特別捜査隊以外の人間との関係は、僕も巽くんも似たようなものではあるのだけれど。
 ……それに。
 
 (巽くんには、いつか別の機会を作らないと)
 
 言いそびれた、転校のこと。思わず僕は唇を噛む。
 
「……っと、いけない」
 
 僕は、廊下にいた生徒達の殆どが居なくなっていることに気づいて、慌てて教室の中へと足を運んだ。
 
 
 僕が巽くんを事件の関係者としてではなく、一人の友人として意識し始めたのは、九月の下旬に差し掛かったころだった。
 僕はそのとき、例の事件の真相を知るために自ら囮になり、マヨナカテレビの中へと落とされた。そして、押し殺していたもう一人の自分……シャドウと相対したときのことだった。
 誰かに必要とされたい。そのためには『格好いい探偵』にならなくちゃいけない。
 だから、『女』でいたくない。
 そんな、僕がずっと押し殺してきたもう一人の自分との対峙を乗り越えるために、彼は背中を押してくれた。向き合えと。目を背けていた自分自身に向き合えと、彼は言ってくれたのだった。
 ……そんなことを言ってくれたのは、彼が初めてだった。
 そして僕は知った。嫌いであった自分に向き合うことで、本当の自分を手に入れるのだと。
 この一件を通して、僕は巽くんを巽くんとして見ることが出来るようになった。もちろん、他の特別捜査隊のメンバーも同じだったけれど。
 
 
 僕と久慈川さんは授業が終わると、約束通りに学校を飛び出して愛家へと向かった。
 気がつかないうちに、頬を撫でる風は暖かくなり、少しずつ春に近づいていることを感じさせる。人がまばらな商店街の様子は相変わらずだけれど、あの事件が収束したこともあるのか、やわらかな雰囲気が漂っているように感じる。
 
「今日は木曜日だから……あっ、焼きそば定食の日だ!」
 
 あたし好きなんだよね。焼きそば、と久慈川さんはスキップしながら緩やかな坂を登る。お店の外まで中華のいいにおいが漂う愛家の扉を開くと、店主がいつものように暖かく迎えてくれた。
 ちょうどいいことに、店内の隅にあるテーブルが空いていたので、僕と久慈川さんはそこをひと時の居城とすることにした。
 久慈川さんが羽織っていたカーディガンを脱いで鞄の中にしまい込む。きっとにおいを服に付けないためだろう……なんて、友人との食事にすら、細かいことが気になってしまう自分に少し辟易した。僕も被っていた帽子を脇へと置いた鞄の縁にそっと引っ掛ける。
 
「へいっ、焼きそば定食お待ちっ!」
 
 そんなことをしている間に、目の前に二人分の定食が運ばれた。ごま油の風味の良い香りが食欲をそそる。
 
「うわっ、美味しそう~!」
 
 華が舞いそうなほどにこやかに久慈川さんは言って、ほかほかの焼きそばに箸を潜らせた。
 僕は、小さな声で「頂きます」と両手を合わせ、目の前で湯気が立ち上るご飯を一口頬張った。
 
「ねえ、直斗くん」
「あっ、……はい。なんでしょう」
 
 咀嚼して飲み込んでから、彼女の呼びに応えた。久慈川さんは不満気な顔をずずいっと僕に接近させた。
 
「完二とはどうなったのよ?」
「ぶっ!? は、はあ?」
 
 久慈川さんのその一言は僕を慌てさせるには十分だった。久慈川さんは知っている、というか気づいているのだ。僕が、巽くんを意識している……かもしれないということを。
 
「どっ、どうなったと言われても……変わらず……としか」
「事件も終わったし、今この時期が絶対ベストなんだからさ。完二だって喜ぶと思うけどな、直斗くんが告白とかしちゃったら」
「そう……でしょうか」
 
 積極的に行くべき、という久慈川さんに対し、僕は完全に消極的だった。
 ……怖いのだ。
 唯でさえ、お互いに距離を置いてしまうほどなのだ。巽くんと友達以上になることなんて出来るのだろうか。はっきりと自分の想いを伝えてしまって拒絶されたら、本当は友達とも思われていないなんてことが明らかになってしまったら。そして、そのまま物理的にも離れてしまったら。彼と会話をし、接することは永遠に出来ないかもしれない。
 それが、僕は怖いのだ。
 
「……巽くんは、僕を友達と思ってくれているでしょうか」
「ぶっ、なーに言ってんの」
 
 久慈川さんは、吹き出しかけた口を右手で抑えて、ゴクンっと口の中のものを飲み込んだ。
 
「それは、全く心配いらないでしょ。完二が直斗くんを友達と思ってないなんて、そんなこと絶対ない! 私が保証する」
「でも、僕はなんだか……巽くんが僕を避けているような気がして……」
 
 例えば、今日の朝。久慈川さんとは何の隔たりも無く会話していた巽くんは、僕と目を合わそうとしてくれなかった。そして、愛家に三人で、という誘いにも難色を示していた。もし一緒に行く三人目が僕ではなくて、里中先輩や天城先輩だったら? はたまた久慈川さんと二人だったら? 巽くんはどうしたのだろう。
 
「うーん、そう受け取っちゃうかー」
 
 久慈川さんは眉間に皺を寄せて唸った。暫し逡巡して口を開く。
 
「完二はまあ、ああいう性格だしね。きっと直斗くんにどう接していいか迷ってるんだと思う」
「迷っている、ですか。そんなこと気にしないでいいのに」
「だから、ここは直斗くんから行くっきゃないよ! 直斗くんの気持ちがわかったら、きっと完二の直斗くんへの接し方も変わるんじゃないかな」
 
 このままの関係を続けていたら、何も変わらないのはわかっている。それどころか、彼との距離はどんどん離れていくことだって予想出来てしまう。巽くんを異性として意識しているのか、友達として距離を縮めたいのか、もう一度自分の気持ちを振り返ってみる必要がありそうだ。
 
「ありがとう」
 
 そう返すと、久慈川さんは「何にもしてないよ」と笑った。
 ……こんなに可愛らしい表情を僕は出来るだろうか。
 
「えっと、それからさ……」
 
 僕は久慈川さんに、自分が八十稲羽を離れることを伝えた。大きな瞳をさらに大きく見開いた久慈川さんは、僕のために涙を流してくれた。仕事が入ったのは急とは言え、彼女の様子に僕の胸は強く絞めつけられた。
 
 
 
 
 
 久慈川さんと愛家で焼きそば定食を食べたあの日から数日が経っても、僕は巽くんに何も切り出すことは出来ていなかった。
 鳴上先輩や花村先輩にクマくん、里中先輩や天城先輩には八十稲羽から出て行くのを伝えることが出来た。「またここへ戻ってきます」と僕の本心も添えて。
 皆には、巽くんへは自分から伝えたいとお願いしてある。だから、本当に何も知らないのは巽くんだけ、ということだ。どうしてここまで彼に後ろめたさを感じてしまったのか、我ながら不思議だ。
 また、八十神高校での一日が終わった。
 正面玄関のガラス越しに見える夕焼け空を僕は意味もなく眺めた。言えなかった。今日も顔を合わせて挨拶だけをして、また言えなかった。
 
 (別に告白とか、そんな大それたことをするわけじゃないのに)
 
 自分で頭のなかでそう呟いて、自分で頬を真っ赤に染めた。……告白、とか例えであっても恋愛じみた言葉が気恥ずかしい。今の巽くんへの僕の感情が恋だったとして、この気恥ずかしさが彼と恋人同士になるまでずっと続くのだろうか。全く身が持たないような気がする……。
 
「んあっ」
 
 背中の後ろから誰かの声がして、驚いた僕の肩はビクリッと跳ね上がった。反射的に振り返ると、そこにいたのは、口をあんぐりと開けた巽くんだった。
 
「た、巽くんも今、帰りですか?」
 
 今まさに彼のことを考えていた僕は、そんなことあるわけないのに頭の中身を覗かれたような気になって、どぎまぎしながら声をかける。
 
「あっ、ああ、まあな」
 
 巽くんは目を泳がせて、肩に担ぐようにして持っていた鞄の取っ手を握り直した。またズキリと胸が軋む。それでも、例の転校について話さなきゃ、と下履きに履き替えようとする巽くんに話しかけた。
 
「ね、ねえ。巽くん、一緒に帰ってもいいですか?」
「はっ、はあ!? い、一緒にって俺と……直斗とか?」
「ほ、他に誰がいるんですか?」
 
 殊更大きな反応を返されて、僕は少し怯む。けれど、何とか巽くんの許可を得ようと食い下がるように彼を見つめる。巽くんは暫くきょろきょろと目を忙しなく動かすと、僕の視線に観念したかのようにため息をついた。
 
「べっ、別にいいけどよ」
「っ! ありがとう」
 
 僕がお礼を言うと、巽くんはつま先を床に二度打って歩き始める。彼に置いていかれないように、僕は小走りで彼を追った。
 
 
 一緒に下校できたことで、ようやく巽くんに告げるチャンスが出来た僕だったが、なかなか会話のきっかけを掴めずにいた。
 夕焼けに染まる鮫川河川敷を僕と巽くんはただただ無言で歩いていた。機嫌を伺うように横目で彼を見る。一文字に結ばれた口だけが視界に入ったけれど、それだけでは彼の様子を窺い知ることは出来なかった。
 
「あの、巽くん」
「あン?」
 
 思い切って彼を呼ぶと、巽くんはすぐに返事をした。ドキドキと脈打つ胸を押さえながら、僕は勢いを借りようと息を吸い込む。
 
「ぼっ、僕、ずっと君に言いたいことがあって!」
「……は? はああっ!?」
 
 一息にそう言うと、巽くんは大仰に驚いた。まだ本題に入っていないというのに、大袈裟な反応に少し面食らう。
 
「ごっ、ごめん。急でしたね」
「い、いや、全然ッ」
 
 途端に妙な空気が僕らの間に流れた。『転校する』と、他の皆と同じように伝えるだけなのにどうして口に出せないんだろう。
 
「直斗!?」
 
 名前を呼ばれてハッとした。いつの間にか僕の視界は滲んでいた。それが涙のせいだと気がつくのに少し時間がかかった。僕は……泣いていた。
 
「ごっ、ごめんなさい! 僕……」
 
 慌てて拭おうとしたけれど止まらなかった。
 
「おっ、おかしいな……」
 
 笑って誤魔化そうとした。けれど、声が震えるだけだ。僕の涙腺は壊れてしまったかのように、ボロボロと止め処なく滴を零した。
 
「っ!」
 
 肩を掴まれ、体が前へと引っ張られた。頬に堅いような、柔らかいような何かが押し当てられて、被っていた帽子はふわりと舞った。
 
「たっ、巽くん!?」
「とっ、取り敢えず、泣くなら泣いとけ。まっ、周りには見えないようにすっから」
 
 僕はやっと、僕がくっついているのは巽くんの胸で、僕は抱きしめられているのだと理解した。こんな映画や小説のワンシーンのような出来事が、突然起きていることに僕の頭は激しく混乱する。
 
「えっ、ええっ、ええっと……!」
「いいから! ……気にすんな」
 
 気にするよ、と小さく呟いて僕は彼から離れることを諦めた。いや、違った。彼の腕の中は心地良かった。出来ることなら、ずっとこのままでいたいほどに。
 
「すっ、すみません……」
 
 体中で耳が痛くなるほど心臓が脈打った。この音が巽くんに伝わってしまうんじゃないかと心配になった。もしそうなったとしたら、僕は恥ずかしさに死んでしまうだろう。
 鼓動の渦の中で、僕は必死に冷静になろうとした。どうして彼の前で涙を流してしまったのか。どうして彼の胸に抱かれてこれほどまでにドキドキするのか。……いや、そんなこと決まっている。僕は、八十稲羽を離れたくない。巽くんと離れたくない。いつ戻れるのかわからないのに、『また戻る』なんて確約できない約束を彼と交わしたくないのだ。他の仲間たちにも同じ思いを覚えている。
 けれど僕は巽くんと別れることに、それ以上の悲しさと寂しさを感じている。嫌われているかもしれない。避けられているのかもしれない。それなのに僕は、彼と離れるのが嫌で、嫌でたまらない。
 
「言わなくて、いい」
 
 僕の頭と背中に触れている巽くんの手に力が込められた。
 
「言いたくなかったら、言わなくていい」
 
 絞りだすような声で巽くんは言った。僕の言いたいことをわかっているのか、それともわかっていないのか、どちらなのか掴めない。知っているなら、もうわかっているなら、僕は……僕は。
 
「俺も……お前に言いたいことがある」
 
 低い声音に、引き攣るように僕の体は跳ねた。抱きしめられている、そんな状況なのにあまり良くない予感がした。
 
「……もうこれっきり、俺に近づくな」
 
 目を見開いて短く息を吸った。それは予想通りの、このシチュエーションに似つかわしくない言葉だった。
 
「どう……して……」
 
 唇が震えた。一瞬緩んだ隙を突いて彼から顔を離して見上げた。『近づくな』、それは友人としてもシャットアウトされた、そんなように受け取れる。
 
「どうして、巽くん」
 
 もう一度、尋ねた。巽くんは僕を見た。まっすぐに見た。こんなときばかり、目を逸らすことをしなかった。
 
「お前は俺といないほうがいい」
 
 目の前が、ぐしゃぐしゃに歪んだ。巽くんが僕をよく思っていないんじゃないかと、不安だった。でも、実際に突きつけられる心構えは出来ていなかったことを思い知らされる。彼の口から出た拒絶は、それまで考えていた以上に重く、残酷だった。
 
「……すみません、君が僕を嫌いなことは薄々気づいていたんですが」
 
 しゃくり上げそうになるのをギリギリで押し留める。それでも言わなければと、口を開く。
 
「僕はもう、君とは顔を合わせないと思います」
 
 ……こんな風に、伝えたくなかった。こんな、最悪な形で。
 
「だって、僕は八十稲羽(此処)を出ていきますから」
 
 僕は昔のように仮面を被った。探偵一族の白鐘家の家柄に沿うように、背伸びをして一人前を、男を演じていたときのように。涙はまだ流れていたけどでも、僕は笑った。そうでもしないと、心が壊れてしまいそうだった。歪んだ視界は見たくないものをぼかしてくれる。決して見たくはない、今の君の顔を。
 僕は、巽くんの体を突き放すように両手で押した。難なく拘束は解かれ、自由になる。傍らに転がっていた帽子を掴んで、僕は彼の横をすり抜けた。巽くんはもう何も言わなかった。それが逆に僕の罪悪感を刺激するようで、彼から逃げるように僕はその場を立ち去った。
 この苦しくて苦しくてどうしようもなく胸を蝕んでくる感情が恋心から来ているというなら、僕はもう二度と恋なんてしたくはなかった。
 
 
 
 
 
 稲羽市を再び訪れる機会は意外と早くやってきた。転入した高校で僕は二年の春を迎えた。
 相変わらずの仕事と学校の二足の草鞋生活も慣れてきたころ、呼び出しを受けたのだ。警察署、あの稲羽警察署から。
 
 (必ず戻るとは言ったけれどまさかこんなに早いなんて……)
 
 八十稲羽に向かう電車で、車窓に流れるのどかな風景を眺めながら、僕はこの場所で過ごした日々を回顧する。
 まさか一カ月も経たずに足を運ぶことになるとは。人生何があるかはわからない。涙まで流してくれた久慈川さんや先輩たちに合わせる顔がない。……とは言っても、稲羽市にやってくることを誰にも伝えていなかったので、会うかどうかは全くわからないのだが。
 
 (巽くんも……元気だろうか)
 
 忙しい毎日に出来るだけ考えないようにしていたが、ここに帰ってくるのであれば否が応でも思い出してしまうものだ。
 
『……もうこれっきり、俺に近づくな』
 
 先に告げられた別れの言葉は、再会を誓うものではなく拒絶の意だった。何度思い返しても胸が痛む。時間が経ってもこの傷は癒える気配がない。
 稲羽市での一件に関わるまで、仲間と呼び合える人間に出会ったことのない僕には、そんな仲間の一人に突き放されたのは酷く堪えた。気が動転していたとはいえ、自分自身も彼を傷つけるようなことを口に出してしまったことも一層僕自身を苦しめた。
 
 (自業自得、だけどね)
 
 僕は深く嘆息して帽子をかぶり直すと、少しくたびれた座席の背もたれに身を任せて目を閉じる。
 レールから流れる小気味いい音と軽い衝撃が僕の身体を打ち付けた。
 
『次は……八十稲羽、八十稲羽です』
 
 雑音混じりのアナウンスが車内に響く。長いと思っていた目的地への旅ももうすぐ終わる。
 
 
 ひと気のない八十稲羽駅に下り立つと、僕は一つ背伸びをして、新鮮な空気を吸い込んだ。都会のごみごみした喧騒より、八十稲羽の静かで落ち着いた雰囲気のほうが好きだ。
 気分が穏やかになってゆくのを感じて、僕はほっと安堵する。事件以外のことを靄々と考えるのは苦手だ。ポケットから携帯電話を取り出して時刻を確認する。待ち合わせ時間には遥かに早い。
 
「少し街を見ていこうかな」
 
 先ほどまで誰かと顔を合わせるのが億劫だと思っていたのにもかかわらず、久しぶりに訪れた八十稲羽に心が踊っていた。何度も足を運んだ見慣れた道、見慣れた空、見慣れた家、見慣れた商店。離れていたのはたった数週間のことなのに、その懐かしさに頬が綻んだ。
 
「あ……」
 
 神社の前まで来て、僕は足を止めた。木製の大きな看板には筆書きで『巽屋』とある。紛うこと無く、彼の、巽くんの家だ。八十稲羽に来てもここに来るつもりはなかったのに、自然と僕の足は向かっていたようだ。
 
「んじゃ、ババア。ちょっくら天城先輩ンちまで行って来らァ」
 
 ガラガラという引き戸の音と共に、見知った声がして僕は思わず神社の鳥居に身を潜めた。
 
「はいはい、よろしくね。新しいお着物、いい染め味だからきっと雪ちゃんにピッタリよ」
 
 続いてしたこの声は、巽くんのお母様だ。どうやら、巽くんはこれから天城先輩の家へ配達に出るところらしかった。
 
「おう。つーか、今日明日、泊まりがけで買い付けだったろ。まだ余裕こいてていいのかよ」
「ああ、いけない。もう少ししたら出るわ。完二、留守の間、火の元に気をつけるのよ。それから、夜遊びは……」
「だああ、わかった、わかった! さっさと準備して行きやがれ」
 
 数週間ぶりの巽くんは、以前と変わった様子はなかった。春の日差しに、金色の髪がキラキラと反射している。今日は休日だというのに、いつもの大きなドクロが描かれた長袖シャツの上に羽織った制服が、春の穏やかな風に揺れていた。キラリと光った首元にあるのは、真新しい二年の学年章だ。
 腕に大事そうに抱えられた風呂敷包みには、天城先輩に届ける商品が収められているのだろう。
 僕は巽くんが目の前を通り過ぎて行くのを息を殺して眺めていた。職業柄、相手に気づかれないように気配を消すのには自信がある。だから今回も僕は彼に悟られないと踏んでいた。彼が神社を通り過ぎるそのとき、足を止めなければ。
 
「……誰かそこに居んのか」
 
 僕は内心飛び上がるほどに驚いた。彼は僕が様子を窺っていることに気がついている。さすがに誰がこの場に居るかまでは察していないようだけれど。一際強い風が吹いた。その瞬間、下から煽られて僕の帽子が宙を舞う。そして放物線を描いて、巽くんの足元へと転がった。
 
「……直斗、か?」
 
 これ以上もう隠れ続けるのは無理だろう。僕は自分を落ち着けるように深呼吸して、彼の前へと進み出た。出来るだけ、平静を装って。
 
「……お久しぶりです、巽くん」
 
 最後に顔を合わせたのが、喧嘩別れのようなものだったから、そして今の今まで覗き見をしていたから、なんだかとてもバツが悪かった。巽くんは、驚いたように口を開けて、その後すぐに表情を険しくした。きっと、僕と似たような心境なんだろう。
 
「いつから帰ってたんだよ、案外早かったんだな」
「ちょっと仕事でここに来なければならなくなって、ついさっき駅に着きました。……お元気そうで何よりです」
「お前も、な」
 
 体の良い、中身の無い会話を。上辺だけを滑るように着地点のない会話を僕らは交わした。それなのに、不思議と僕には嬉しいという感情が沸き上がってきた。辿々しくても、以前に輪をかけて他人行儀でも彼と話が出来たことが本当に嬉しかった。……ああ、僕は。やはり。彼のことを特別意識している。
 
「あの、迷惑でなかったら一緒に行ってもいいですか。これから、配達なんですよね」
「……ああ、いいぜ」
「ありがとう、少し君と話がしたくて」
 
 そう言うと、彼の口角が少し上にあがった。
 
「俺も、そう思ってた」
 
 彼の言葉に、安堵して僕は彼の元へと踏み出した。巽くんは足元に落ちたままだった僕の帽子を拾い上げ、軽く叩いて土や砂を払うとすっと差し出す。数週間前のあの日、同じように帽子が落ちたときのことが頭をよぎる。あのときはそう、僕が拾った。
 
「ありがとう」
 
 自然と温かい気持ちが僕の胸に広がり、頬が緩む。すると巽くんも同じように小さく笑った。離れたはずなのに近づいた。そんな気がした。
 歩き出す巽くんの横を僕も歩く。以前のように見上げた彼の今の表情は、太陽の光が眩しくてよく見えなかった。
 
「あ、あのっ……」
「直斗っ」
 
 切り出したその声は彼の僕を呼ぶ声に重なった。
 
「ごっ、ごご、ごめん! たっ巽くんからどうぞ」
「い、いい、いや、お、おお、お前からっ」
 
 かああ……と僕は真っ赤になって下を向いた。巽くんもいつものように目線を空に向けて頭を掻いている。ああ、なんだかこういうところは全然変わらない。
 
「……ごめんなさい、巽くん。僕、君に酷いことを言いました」
 
 何度かの問答と暫しの沈黙の後、ようやく謝罪を述べられたのは旅館へ向かうバスの中だった。
 僕ら以外客は誰もいない車内。古い舗装の道を上へ下へと揺られながら、その心地良さに身を任せてやっと口に出せた。
 
「ンだよ。ありゃあ、お前は全く悪くねェだろが」
 
 窓のふちに肘をかけて頬杖をした巽くんがそう返した。
 
「俺がお前を一方的に突き放したんだ。そりゃ、ああもなるだろ」
 
 そのときを思い出して胸がぎゅっと苦しくなる。好意を抱いた相手。それなのに友達という関係ですら拒絶された、思い出したくない、けれど何度も咀嚼するように頭のなかで繰り返した記憶。僕は唇を噛み締めて、膝の上の両手をギュッと握った。
 
「……怖かった」
 
 ほとんど聞き取れるか聞き取れないかの声で、巽くんが言った。いつも男気のある威勢の良さが今はなかった。
 
「俺はこんなナリだし、口だって悪ィしよ。いくら自分(テメエ)自身を受け入れたっつったって、周りの目が急に変わることなんてねえ。そんな俺の近くにお前が居たら、お前だっておんなじように見られる。それが……堪らなかった」
「そんなの……僕はっ! 僕だってずっと……」
 
 今の御時世で推理小説のような探偵なんて。まだ子どもなのに顔を出して。これまでに何度も何度も言われてきたことだ。白い目で見られるのなんて慣れている。それに、僕は本当の巽くんを知っている。だから周りの目なんて始めから気にしてなんていなかった。
 
「僕は……僕はそんなこと気にしないって、君もわかっているでしょう?」
 
 僕の両手は、自然と彼の膝に置かれた手に触れていた。少し汗ばんだ、僕とは違う男の人の手。視線の先には、呆気にとられたような顔をした巽くんが居た。
 
「……直斗」
 
 巽くんが僕の背中に腕を伸ばす。あの腕にまた、抱きしめてもらえる。そう予感して僕は瞼を閉じた。
 
『ゴホンッ、次は……天城旅館、終点です』
「!?」
 
 大きな咳払いと共にアナウンスが流れ、僕らはやっとここが公共バスの中だったということを思い出す。かあっと熱を帯びた顔を隠すように僕は帽子を深く被って下を向いた。巽くんがどんな様子かはわからなかったけど、きっと僕とほとんど変わらない仕草で平静を装うとしているのだろう。
 
 
「天城先輩も相変わらず、元気そうでしたね」
 
 商店街のバス停に降り立った僕は、まだバスのステップを降りている後ろの巽くんに向けて言った。
 
「そうだな。まっ、来月頭はゴールデンウィークだし、今は準備でめちゃくちゃ忙しいんじゃねえか?」
 
 華やかだけど慎ましい着物で出迎えてくれた天城先輩の後ろで、右へ左へと目の回るように動いていた従業員の人たちの様子を思い起こした。
 
「きっと先ほど届けた着物を連休でお召しになるんでしょうね。素敵だろうな」
 
 新しい着物を身に纏った天城先輩を思い浮かべると、自然と顔がほころんだ。
 プシューッと、まるでため息のような音を上げてドアの扉が閉まる。バスを降りた巽くんはようやく自由を得たとでもいうかのようにコキコキと肩を回した。
 
「なあ、直斗。今日はいつまで居るんだ」
 
 巽くんの問いに、僕は携帯電話を取り出して今の時刻を確認する。そろそろ警察署に向かわなければならない。例の事件に関する呼び出しだとしてももう犯人は自供しているわけで、裏付け捜査の一環で僕に再び話を聞くのなら、それほど長くはかからないだろう。
 
「これから一、二時間ほど仕事に向かいます。その後は特に予定を入れていないので、終電までは居られるのではないかと」
「……そっか。んじゃ……」
 
 巽くんは少し何かを考え、大きく息を吸い込んだ。
 
「河川敷で待ってるぜ」
「!」
 
 僕らにとっての河川敷は、いつだって重要な場所だった。巽くんがそこを選んだということは、きっと何かが起こるはずだ。
 
「わかりました。……必ず」
 
 そう、僕は約束をした。彼とまたすぐに再会することを。僕の答えに、巽くんは満足そうに笑った。
 
 
 
 
 
 四月初旬の鮫川河川敷は、日暮れまでまだ時間があるとは言え、まだ少し肌寒かった。僕の去った三月の終わりに比べて、草花が瑞々しく、青々と生い茂っているのが見て取れた。
 
「巽くん!」
 
 僕は、川辺で石切遊びをしていた巽くんを見つけると、自分なりに大きな声で呼びかける。すぐに彼は振り返って、おうっと答えた。
 
「すみません、思いの外時間がかかってしまって」
「別に気にすんな。今日来た理由はソレだろ。俺のほうが付き合ってもらってんだ」
 
 ひゅっと空を切った薄い小石が、水の上をてんてん、てんと滑って消える。それを最後に、巽くんは僕の立つ堤防の草むらを登ると隣に腰掛けた。僕も彼に釣られるようにして座り込む。気持ちの良い風が頬を撫でた。
 
「……で、何から話そうと思ったんだっけか」
 
 巽くんはそう独り言を呟いて遠くを仰いだ。
 そしてすうっと深く息を吸う。
 
「直斗ッ!」
「はっ、はい!」
 
 突然の大声に身構えた。
 僕の心の準備なんてお構いなしに巽くんは言葉を続ける。
 
「俺ァ……俺ァ、お前が好きだッ!!」
 
 叫んだ巽くんの言葉は、川の音しか聞こえなかった静かな河川敷に広くこだました。後から考えてみれば、きっと周りの人たちは驚いてこちらを見ていたと思うけれど、そんなこと意識できないほどに僕は巽くんに圧倒されていた。
 
「たつ……みくん……?」
 
 情けないことに、僕は彼の名前を口に出すことしか出来なかった。いや、それしか出来ないくらいどうしていいかわからなかった。巽くんが僕を好きだなんて。そんな言葉が聞けるなんて考えても見なかったからだ。
 
「……俺に近づくな、なんて酷えこと言っといて、今更何言ってやがんだっつーことは俺もわかってる。わかってるけどな、やっぱ言わねえとダメな気がしてよ」
 
 強面と称される巽くんの顔が赤く染まって、いつも釣り上がっている眉がハの字に下がって、こんな状況なのに僕はそれを可愛いと思った。
 
「近づくなっつったからには、俺なりにその、なんつーか覚悟があったつもりだ。お前に嫌われてもいいからお前を守んなきゃって、自己満(ジコマン)に浸ってた」
 
 巽くんは、上半身をひねると僕の両肩を掴んだ。ジンジンと心地の良い痛みがそこに広がり、すぐに巽くんへと引き寄せられる。僕の身体はまた、彼の大きな体躯にすっぽりと収まった。
 
「ほんっと、俺馬鹿だよな。お前が出て行くって言ったとき、突き放したのをすっげー後悔した。お前が、先輩らや俺らにいつも気ィ使ってくれてんのは知ってる。そんなお前にああ言わせちまったのは、傷つけたくない、守りたいってキレイ事言いながら一番傷つけちまった俺のせいだ」
「巽くん……」
 
 僕の頬に一つ滴がこぼれると、堰を切ったかのように後から後から溢れだした。
 
「悪ィ。ごめんな、直斗」
「ぼっ、僕だって……ッ!」
 
 ぎゅっと巽くんが僕を抱きしめた。数週間前とは違う意味を持つ抱擁。謝罪の言葉を繰り返す彼に、僕も謝ろうとしたのに、嗚咽が混じってうまく声が出なかった。
 ごめんなさい。僕だって君を傷つけた。
 こんなに情に厚い人をここまで苦しめた。僕らはそれぞれ独りぼっちで生きてきて、やっとかけがえのない仲間を、何よりも大切な仲間を手に入れたのに。お互いに傷つけあって、お互いに逃げてきて、お互いに離れようとして。
 
「ごめん……っ、ごめん、巽くん。……っ、ごめんなさい……っ……」
 
 彼を必死で抱きとめた。もう離れたくなくて、離れて欲しくなくて。親にすがる子どものようにしがみついた。
 
「直斗……ッ」
 
 彼の腕に入った力は、巽くんが僕と同じ想いなのだと確信できるものだった。暫くして力をゆるめた彼を見上げる。眉間に皺を寄せた巽くんが、間近に居た。彼は黙ってまだしゃくり上げている僕の頬をその大きな手で触れた。落涙を指で拭って両の手で僕の頬を包み込むようにして。
 
「んっ……」
 
 僕は小さく息を飲んだ。揺れる視界の中で、巽くんの長い睫毛が映えた。唇に押し当てられたのは彼のそれだと知ると、僕の心臓はけたたましい音をたてて脈打った。そっと重ねられただけのキスに、止め処なく感情が湧き上がってきて、僕の思考は機能してはいなかった。
 ああ、この胸に広がる温かな気持ちは、この気持ちこそが、『恋』……というのだろうか。
 
 
「悪ィな。あんま片づいてなくてよ」
 
 巽くんは頭を掻きながらそう言って、僕を部屋へと招き入れた。片付いていないとは言っていたもの、お世辞ではなく、綺麗に整えられた部屋だった。畳の上のベッド、編みかけのあみぐるみが作業道具と共に置かれた低いテーブル。
 初めて入る男の子の部屋が新鮮で、僕は彼の部屋をきょろきょろと見渡した。
 誘ってくれたのは巽くんからだった。都会ほどでなくとも、人が往来する場所で僕らはキス……口づけをしてしまった。恥ずかしいことだってわかっていたのに、もっと、もっとと僕らは求めた。四度目のキスをして、巽くんが言った。
「俺の家、来るか?」と。
 今日は彼の母親が不在だということは、神社で様子を窺ったときに知っていた。お互いの想いを確信してしまっていたから、もっと巽くんと一緒にいたいと思ったから、僕に断る選択肢なんてなかった。
 八十稲羽へと再び足を運んだ目的、稲羽警察署で桐条グループに関する依頼を受けたことなんてなんだか遠い昔に思える。
 
 (……今日の今日ぐらい、考える必要はない、か)
 
 乱れのないベッドをさらに整え直す巽くんを見て、僕の胸はドキリと一段と大きく高鳴った。
 
 (なっ、なっ、何を考えているんだ、僕は!)
 
 異性の部屋。彼のベッド。まだ好きだという感情を確かめ合ったばかりの僕らが、急にそんなっ、いやらしいことまで飛躍するなんて現実的じゃない。考え過ぎだ。
 
 (もっ、も、も、もちろんベッドは巽くんが寝て、ぼっ、ぼぼ僕は、この辺にゴロッと……!)
 
 自分はなんて早とちりをしてしまっているんだろう。そんなわけ、ないじゃないか。僕らはまだ学生で、告白し合ったばかりで……。
 
 (あ……あれ、僕、巽くんに……巽くんに好きって言ったっけ……)
 
 背を向けている巽くんをよそに、僕は先ほどまでの夢の様な出来事を思い出していた。
 ……言っていない。巽くんを意識しているとか、すっ、すすっ、好きだとか、こっ、恋人として一緒に居たい、とか。
 
 (ぼっ、僕……巽くんに何にも……何にも伝えてない!)
 
 今更ながら僕は血の気が引いた。自分の気持ちを彼に告げていないのに、あんなに何度もキスをして、挙句部屋に上がりこむだなんて! あ、あれだ。い、所謂アバズレとか、歴戦の猛者とか、そんなふうに巽くんに思われているのだとしたら、誤解を解かなきゃならない。いや、まずは僕の気持ちをはっきりと伝えなくてはならない。
 
「たっ、たた、巽くん!」
 
 上擦った声で、巽くんを呼ぶ。彼は、「ン?」と首を傾げて僕を見た。
 
「あっ、ああ、あ、あの……あの……!」
 
 頬が、顔が、体中が熱を帯びていくのを感じる。ありきたりな表現だけれど、僕は今茹でダコのように赤いだろう。彼の目を見たら、余計に気が焦って何と言っていいのかわからなくなった。それでも、僕は無我夢中で言葉を探した。
 
「ぼっ、ぼぼ、僕、そ、その……」
 
 息を吸い込む。ここではっきり言わなければ、白鐘家の名折れだ。それぐらいの気概で僕は口を開いた。
 
「あ、あ、お、お、お……お風呂ッ、貸してください!」
「ああ、下降りて右な。あっ、タオルや着替え用意すっから一緒に行くぜ」
 
 ……言えなかった。
 
「あ……ありがとう」
 
 彼の部屋に入って、即効でお風呂だなんて言い出して、なんだかやはり誤解を招きそうだなと、彼の後をついていきながら僕はこっそりため息を吐いた。
 
 
 巽くんがお湯をはってくれた浴槽に僕は腰を下ろした。少し熱めの湯船が足元や冷えきった体の芯をじわじわと温めてくれる。
 
 (……部屋に戻る前に作戦を練ろう)
 
 予定や対策、作戦を練るのは得意だ。肩まで身を沈めながら混乱しかかっていた頭のなかを整理する。どうせなら、巽くんが喜んでくれるような演出を施したい。やっぱり、女の子らしさを盛り込んだほうが良いだろうか。例えば、後ろから抱きしめて「好きだ」と告げる、とか。……いやいや、そんな大胆な真似、僕に出来るわけがない。それなら転んだと見せかけてしなだれかかる、とか。……だから、そんな度胸があったらとうにしている。
 アイディアが浮かんでは消えて、また浮かんで消える。暫くグルグルと考え続けて、匙を投げた。
 
 (やっぱり、こういうの僕には向かないな)
 
 散々悩んだ挙句、僕が行き着いたのは『ストレートに伝える』ということだった。これまで抱えていた気持ちを素直に告げる。これが一番自分らしくて、一番スマートに思えた。
 
 (安心したら……なんか、眠くなってきた)
 
 湯加減のあまりの気持ち良さに、僕はついうとうとし始めた。そういえば今日は、朝早くから準備してここへ向かってきたのだった。
 改めて今日一日、いろんなことがあった。数週間ぶりに八十稲羽の地に降り立って、街並みを懐かしんで、巽くんに会って、仲直りして、また新たな事件に出会って。巽くんの想いを知って、口づけを……交わして、彼の部屋に足を踏み入れて。
 
 (すごく……密度が濃い一日だったな……)
 
 天井に浮かび上がった湯気が、水滴へと姿を変え、ポタリ、ポタリと湯に落ちる。規則正しいようでいて時々リズムが崩れるその微かな音は、僕の耳に心地よく届く。
 
 (いけない……寝たら……だめ……だ)
 
 そんな心の中の制止も虚しく、僕は侵食する睡魔にあっけなく身を落とした。
 
 
 
 何か、短い夢を見ていた気がする。
 どんな夢だったか朧げで、はっきりとした内容は覚えていないけれど、とても幸せな夢だった。僕の隣には背が高い男性が居て、その彼は僕が昔よく思い描いていた大人の探偵に何処か似ていた。性別も身長も、彼のようになることは出来ないけれど、僕はとても――――幸せだった。
 
「……斗、直斗……」
 
 遠くで僕を呼ぶ声がする。力強くて、頼もしくて、僕の好きな声音だった。けれど、僕は少し怖かった。今、この声のするほうへ行ったら、この幸せは消えてしまうのではないだろうか。心地よい空間をふわふわと漂うような感覚を失ってしまうのではないだろうか。
 
「直斗!」
 
 だけど、その声はとても必死だった。必死で僕を呼んでいた。僕は声のする方へ手を伸ばした。指の伸びたその先で、光が眩しく弾けた。
 
 
 瞼を開けて最初に目に入ったのは、紐のぶら下がった円形蛍光灯だった。二度三度、瞬きをすると次第に視野が開けてくる。
 
「っ、直斗!」
 
 覆いかぶさるように身を乗り出したのは金色の髪。
 
「巽……くん?」
 
 まだはっきりしない頭で、彼を呼ぶと巽くんは心底安堵したというように、涙まじりで笑みを作った。
 
「あ~~、もうめちゃくちゃ心配したぜ!」
 
 ……そうだ。僕は巽くんの家に泊まることになって、先ほどまでお風呂に入っていたはずだ。そこで記憶が定かではなくなって……って。
 
「なっ!?」
 
 勢い良く身を起こすと、額から白い何かが落ちた。掛け布団の上に転がったのは水を含んだタオルのようだった。自分の体を確認しようとすぐに視線を落とす。しかし、僕は裸のままではなく、着替え用に用意された巽くんの私服を身に纏っていた。
   
「これ……は……」
 
 おそらく僕は、浴槽の中で湯あたりを起こしてしまったに違いない。それが今、彼のベッドの中に居て衣服を身につけているのだから、これは辻褄が合わない。
 
「もっ、もっ、もっ、もしかして……」
 
 嫌な予感が僕の脳裏によぎる。瞬時に彼を見ると、巽くんは頬を真っ赤に染めたたま、目をそらした。その鼻にはティッシュが丸めて詰められている。
 
「みっ、見たんですか!」
「しょっ、しょうがねえだろ!? 遅いから様子を見に行ったら風呂ン中でぶっ倒れてんだ! そ、そのままにしておけるわけねえだろ!?」
 
 巽くんの言い分は最もだ。だけど、僕も一応女の子であって、同性同士でも緊張するというのに、異性の、ましてやつい先ほどキスまでした相手にすんなり裸を見せて平然としていられるほど僕はクールになりきれなかった。
 二人で睨み合ってみたものの、やはりどちらも気恥ずかしさが勝って互いに顔を逸らした。
 
「ごっ、ごめん……助けてもらったのに、こんな」
「い、いや。俺もわ、悪かったよ」
 
 背を向けて、そして僕らはまたお互いの様子を窺うように振り返って。なんだかそれがおかしくて、二人でついに噴き出した。
 
「巽くん」
 
 ひとしきり笑った後、僕はまた彼の名前を呼ぶ。
 
「あン?」
 
 聞き返す巽くんに、僕の胸はまた激しく脈を打ち始める。少しでも冷静に努めながら僕は口を開いた。
 
「僕、巽くんならいいって……思ってますから」
「なお、と……? おまっ、それって……」
 
 思い切って口に出した言葉は、やっぱり恥ずかしくて僕は思わず巽くんの布団を頭から被った。
 
「なっ!? ちょ、おい、直斗! 今のって……」
「にっ、二度は言わせないでください!」
 
 そう叫んだ僕の声は、布団にだけ反響してくぐもった。巽くんのにおいがする、巽くんのベッド。今日の朝には予想できなかったこの状況が、僕の思考を狂わせる。
 馬乗りになった巽くんが、僕が被っていた布団をはいだ。外気に晒された僕の体に鳥肌がうっすらと立つのがわかる。
 
「……見ていいって、ことか?」
 
 この騒ぎで巽くんの鼻にあった栓はどこかへと吹っ飛んで、影も形もなくなっていた。僕は彼の顔を見つめ続けることが出来ずに両手で顔を覆った。着せられたダボダボの服から、布団と同じように巽くんの香りがした。
 
「……………………はい」
 
 どう答えたらいいか暫く迷って、僕はやっと消え入りそうな声でそう返事をした。
 
「直斗ッ!」
「ん、ふっ……」
 
 顔を隠したはずの両手は、巽くんに手首から掴まれて引き剥がされ、食いつくようなキスをされる。呼吸をしようと開けた口の端から、彼の舌が差し入れられた。
 
「んんっ、ん、ふっ……ぅ」
 
 絡みついた舌はゆるゆると上下に動き、酸素を求めれば角度を変えてまた僕を貪った。
 
「はっ、んあっ、む、んんっ……」
 
 くちゅくちゅと、僕の口内から淫らな音が漏れる。僕のものとも巽くんのものともわからない唾液が混ざり合って、口から漏れた。
 
「っ、はっ、なお……と……ッ」
 
 巽くんはぷちゅっと音を立てるように唇を話して、吐息の混じった声で僕の名を紡ぐ。僕はただただ呼吸を整えることしか出来なくて、壊れそうなほどに激しい鼓動に耐えていた。
 
「あっ、やっ……!」
  
 --サンプルここまで--
  
 WEBでは読みづらいため、会話文の前後に空行を挿入しています。
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