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戀結び【ユガココ】

 
 
 
 頬に小さな刺激を感じて、夕神迅は目を覚ました。聞き慣れた羽音と柔らかな風。肩へ降り立った相棒のギンがうたた寝していた自分を起こしたのだと、重い頭でようやく理解する。
 
「……いい子だなァ、ギン」
 
 そう言って撫でると、彼は頭を夕神の額に擦り付けた。その様子に口角を上げ、夕神は再び沈みの良い革椅子に背を預ける。ギンはバサバサと大きく羽根を打って飛び、背の高い本棚と天井の隙間に身を落ち着けた。
 ここは検事局の夕神に与えられた検事室……いわゆる専用の執務室だ。在籍する検事一人ひとりに充てがわれる個室だが、夕神にとっては長い間身を置いた独房とそう変わらない。息苦しく、孤独で、形式を重んじる場所。その箱が違うだけの話だ。
 綺麗に整頓されたデスクの上に、無造作に分厚いファイルが投げ出してある。それは、ついこの前に行われた裁判の報告書だ。検事局からのものではない。夕神が依頼したとある弁護士事務所……いや、なんでも事務所から届いたものだ。
 先日、夕神の馴染みだった落語家の旋風亭獏風が殺害された。その事件を担当した弁護士は、こちらも縁の深い希月心音だった。被告人とされたのは内舘すするだ。彼を信頼していたからこそ、最も信用の置ける弁護士へ依頼したはずだった。まさか、まだひよっこの心音が出てくるとは思っても見なかったが。
 
 (まあ、師匠への良い供養になった……てェことにしとこうかい)
 
 夕神はファイルを手にして、パラパラとページをめくる。荒さはあるが、丁寧にまとめられた報告書。これも、担当弁護士である彼女が仕上げたものだろう。事務所の所長である成歩堂龍一と心音の先輩である王泥喜法介はあの日、日本に居なかった。
 そのために留守番として唯一残っていた心音が夕神からの依頼を引き受けることになったのだった。証人として法廷に立った夕神だったが、役割を終えてからも様子を見守り続けるには、あまりに苦でしかなかった。
 被告人の無罪を信じて立った一人で法廷に立ち、救おうとする心音。その彼女の感受性の豊かさを利用して傍聴人を煽り、追い詰めようとする検事。心音の心が壊れていく様をただ見ていることは夕神には決してできない。
 所謂『ヤメ検』という、検事から弁護士に転身し、それまでとは全く違う立場で法廷に立つ人間は少なくない。だが、検事という肩書のまま弁護士席に立ったというケースは夕神もあまり聞いたことがなかった。
 かつて、御剣怜侍検事局長が上級検事として腕をふるっていた頃、何某かの裁判で弁護士席に立ったらしいという話は、検事局に納められていた報告書で読んだことがある。
 だが自分が、彼と同じように弁護士席に立つことになるとは、牢獄の外の世界はなかなか新鮮にも思えた。しかし、自分は検事だ。彼女は弁護士だ。それなのに、心音が絡めばそんな立場の違いすら関係ないほど周りが見えなくなる……当然、弁護を依頼した自分は被告人の無実を信じており、さらに慕っていた落語家の死の真実を追い求めたいという思いも強かったという理由もあるのだが。
 ほんの数日前の出来事に思いを馳せ、夕神は再びそのファイルをデスクの上に置いた。
 
「夕神検事、居るだろうか」
 
 ドアがノックされ、夕神はそちらへと目をやった。ノックと同時に自分の名を呼んだ声の主は、自分の上司である御剣怜侍のようだとわかった。
 ……いつの間に検事局へ戻ったのだろう。コツコツと堅い靴音を響かせてドアに向かいながらそんな疑問が浮かぶ。検事室にこもる前に、同僚検事の誰かが御剣は急な用件で出ていったと話しているのを聞いていたからだ。
 
「……何かあったのか、御剣の旦那」
 
 ドアを開けると、立っていたのは予想通り御剣だった。
 相変わらず気難しい顔で腕を組んで佇む彼に何か言葉を紡ごうとして、夕神はそれを思わず飲み込んだ。
 
「こっ……、月の字 ……ッ」
 
 検事局長の後ろからおずおずと顔を覗かせたのは、先程まで夕神の頭の中を締めていた心音だった。彼女に話を聞くより先に、御剣が口を開いた。
 
「これからキヅキ弁護士は、私と成歩堂、そしてオドロキくんらと共にクライン王国へ出立する。その前に彼女がキミにどうしても会いたいと言うので、ここへ連れてきた。とは言え、今は一刻を争う事態が起こっている。可能ならできるだけ手短に済ませてくれないだろうか」
 
 そこまで一気に状況を説明した御剣に、心音が頭を下げる。
 
「あの、無理を言ってすみません、御剣検事! えっと、夕神さ……検事、検事室の中で話をしてもいいでしょうか」
 
「別に悪かねェが……」
 
 検事局に弁護士がやってくるのはそう珍しいことではない。けれど、新米弁護士の彼女が来たというのは話が別だ。どれほど夕神にとって親しい人物であったとしても、あまり見る光景ではない。
 
「私はここで待たせてもらおう。では、夕神。彼女を頼む」
 
 一方的に話を進められ、状況をよく飲み込めない。だが、促されるままに夕神は、彼女を部屋へと迎え入れることにした。
 扉を締めた後も、心音はうつむいたままで少しの間、沈黙が流れた。何がどうなっているのか、未だ理解が追いついていないが、早く済ませろと御剣に言われた手前、心音の言葉を待たずに痺れを切らして口を開く。
 
「……おめえさんがここに来るなんざ、よっぽどのことだろう。話してみろ、ココネ」
 
 名前を呼ばれて顔を上げた心音の表情は、胸の内を探る必要がないほど苦しそうに歪んでいた。
 
「夕神さん……」
 
 今にも泣き出してしまいそうな、掠れた声。その姿が、幼いころの弱々しい彼女と重なった。
 
「ごめんなさい、突然……。日本を出る前にどうしても夕神さんに会っておきたくて」
「別に俺ァ、構やしねェが……一体何があった」
 
 彼女の口から発せられた言葉に絡みついているのは、不安、恐怖、戸惑い。どうやら、よほど深刻な事態に足を突っ込んでいるらしい。
 
「ええっと……」
「いや、時間がねェんだろ。詳細は良いから用件だけ言え」
 
 そう急かすと心音は少し思案して、すぐに夕神を縋るように見上げた。
 
「夕神さんに、その、気合を入れ直して欲しくて」
「…………あァ?」
 
 彼女から読み取れるココロとは裏腹に、持ち前の元気をフル回転させて心音は笑った。また無理をしている。
 本当にわかりやすい子だ。
 
「コワイヨー! フアンダヨー!」
「わっ、バカモニ太!」
 
 間髪入れずに彼女の心を正確に読み取る首元のモニ太が甲高い声をあげる。どうやら自分の心理分析の結果と彼女が抱える本当の気持ちには寸分の違いもないらしい。
 
「……わたしは」
 
 モニ太をぎゅっと掴んで、心音はまた表情に影を落とした。バサバサとまた羽音を立てて、ギンが夕神の肩に降りる。抜け落ちた茶羽根がふわふわと宙を舞う。
 
「全然一人前の弁護士じゃない。この前の裁判でも痛いくらい思い知りました。夕神さんの力なしじゃどうなっていたかわかりません」
 
 軽く息を吸い、もう一度夕神を見返す彼女は小さく震えていた。
 
「……だけど、今度はナルホドさんやオドロキ先輩の ……ううん、何より依頼人の力になりたいんです! 皆に頼ってばっかりで守ってもらうのはもう嫌なんです。だから……だからせめて、夕神さんに気合を一発……ッ、ふわッ!」
 
 彼女の頬の両側を、パンッと音を立てて手のひらで包んだ。
 
「あにすふうんえふか(何するんですか)ー!」
 
 両頬を中央に向けて押しやると、本当にひよこみたいに心音の唇が前へと突き出した。
 
「生き急ぐのは止めときなァ、ココネ」
「うぇ、うぇつにいひいほいへあんか(別に生き急いでなんか)……!」
 
 これはこれで愉快なので、しばらくこうしていたかったが、彼女があまりに暴れるので渋々解放する。
 
「いや、生き急いでらァ。気合を入れたからって即席で一人前になれりゃァ、誰でも苦労なンてしねェさ」
 
 それでも食い下がろうとしない心音の口を片手で塞ぐと、夕神はもう片方の手を自分の頭の後ろへと伸ばした。
 シュルっと、乾いた音がする。夕神が握っていたのは彼の髪紐だ。数本の細い紐で結われたそれは、手作りのようでいて網目が美しく整っている。急に自由を得た髪がふわりと広がったのを見た心音が息を呑んだ。
 
「……腕、貸せ」
「ひゃ、ひゃい!」
 
 慌てながらパッと差し出された彼女の左腕を持ち上げ、夕神はその手首にくるくると髪紐を巻きつけて輪を作り、器用に紐をくぐらせた。瞬く間に紐が二重になった大きな輪が二つ、小さな輪が一つの飾り結びが出来上がる。
 
「可愛い……」
「昔、師匠……おめえさんの母さんから教わったもンだ。二重叶結……神社なんかでもらう御守についてンだろ」
 
 形を整えると夕神はそのまま手を滑らせて、彼女の手のひらに重ねた。
 
「結びには想いが宿る。はじめは願いや望み……ただ憧れるだけだったもンが、結びとして形になってやがてそいつァ、心の支えに変わる」
 
 キュルキュルと、肩の上のギンが喉を鳴らす。心音に触れる手に力を込めれば、彼女の頬がぱっと色づいた。
 その瞬間、急かすような大きなノック音が響く。ギンが羽根を広げて飛び上がり、また本棚と天井の隙間に身を隠した。
 ……きっとこれがもう限界ということなのだろう。
 
「貸しといてやる。キリがついたら返しに来い」
「……はい! ありがとうございます、夕神さん!」
 
 その声音から、彼女の心理状態が幾分穏やかなものになっていることがわかる。揺れるモニ太の色も陽気なものへと変わっていた。再びドアを開くと、より眉間の皺を深くした御剣が待ち構えていた。
 
「すまねェな、旦那」
「ありがとうございました、御剣検事!」
 
 ほとんど同時に二人が声を掛けると、軽く会釈をした御剣だったが、髪を下ろした夕神の姿を見て少しぎょっとした表情を見せる。
 
「……いや、こちらも十分な時間を用意できずにすまない」
 
 思わず驚いてしまったことを取り繕うかのようなそぶりの御剣に、夕神は心音に聞こえないように声潜めて耳打ちをした。
 
「旦那に言うことじゃねェが……アイツのこと……」
 
 言い終わる前に、御剣は自らの前に人差し指を差し出してチッチッチと小さく舌打ちした。
 
「キミが彼女のことを気に病むだろうとは思っていた。まかせておきたまえ。彼女を危険な目に遭わせるつもりはない。それは成歩堂も同じ心持ちのはずだ」
 
 ひらりと上着をなびかせて踵を返す御剣と時折こちらを振り返り、大きく手を振る心音の姿を検事局の長い廊下の向こうまで見送って、夕神は長い髪に手を差し入れて頭を掻いた。
 クライン王国。弁護士を必要としない国。世界の中で非常に特殊な法廷制度を持つ場所であることは夕神も知っていた。しかし、それ以上のことは頭に入っていない。後先考えずに飛び込む癖のある心音がまだ法廷に立ってさえいないのに、あれほど不安に感じていたことも気になった
 ……そう言えば、獏風の事件を担当した風変わりな検事、ナユタ・サードマティの出身もクライン王国だったか。
 
「ちいっとばかり、調べてみるかねェ」
 
 一人でそうつぶやくと、夕神は検事室の中へと戻り、扉を閉めた。
 
 
 
 クライン王国についての資料は、夕神が想定した通り容易く手に入った。彼が所属しているのが検事局であること、日本の検事局にクライン出身のナユタ・サードマティ検事が出入りしていること、心音達と共に出国した御剣怜侍がクライン王国に対して入念な調査を行っていたこと。
 これらのおかげで、クライン王国の法律や法曹界の現状を詳細に知ることができたのだ。
 
「《御霊の託宣》ねェ……」
 
 肩に乗るギンのクチバシに指を戯れながら、夕神は呟いた。日本でも以前、霊媒が関連する事件の裁判が行われたことがあった。
 だが、今の世の中では科学的根拠に乏しい霊からの言葉を全面的に受け入れている国というのも非常に珍しい。いや、ここまで来ると妄信的と言っても良いかもしれない。
 御剣の残した資料でもわからない、そもそも検事だからこそわからないのは現在、心音……成歩堂達が直面している事態だ。彼女一人だけではなく、彼らが傍にいるなら安心しても良いはずなのに、どこか夕神の中で不安が拭い切れていない。
 それは、彼女が切迫した事態にも関わらず自分に会いに来た、そして御剣もそれを許可したことにある。気合を入れて欲しいなどという甘えた理由だったが本当は、それ以上に何か理由があったのではないだろうか。
 
「あーもう! 検事ってヤツはどいつもこいつも……」
 
 部屋の外から女性の悪態をつく声がして、入室の挨拶もなく、突然検事室の扉が大きく開け放たれた。視線をそちらに向けるとそこにいたのはダンボールを抱えた女性刑事、宝月茜だった。先程微かに聞こえた愚痴はまるでなかったとでも言うように、茜はダンボールの脇からニンマリとした笑顔を夕神へと向ける。実はその表情は見かけだけで、内心苛々している……などと心理分析をしなくとも察するのは容易い。
 
「なんでしょうか、夕神検事。あたし、実は今結構立て込んでまして……」
「まァ、そう言わずに茶ァでも飲んで少し落ち着いてみたらどうだァ? 多少の余裕がなけりゃァ、あの風変わりな検事のお相手は務まンねェだろう?」
「……あたしが忙しい理由、ちゃんと知ってるじゃないですか」
 
 むうっと頬を膨らませて、茜は応対用のソファーに腰掛け、傍らにダンボールの箱をどかっと置いた。中身は証拠品のようだった。分厚いノートやらレインコート、契約書のような書類まで、多種多様な物品が詰め込まれている。
 
「あれ? 髪型、イメチェンでもしたんですか?」
 
 不服そうな顔をもう取り繕うともせず、彼女は夕神の髪を見やる。夕神は気まぐれだ、と短く返す。
 
「それで? あたしに聞きたいことがあるんですよね」
「あァ。生憎話のできそうな相手が、おめえさんしか居なくてなァ」
 
 言いながら立ち上がると、夕神はソファーの向かいにある小テーブルへと進み、茶を入れる準備を始めた。
 
「……クライン王国か、ナユタ検事のことでしょうか?」
「察しがいいねェ。さすが、国際検事殿の右腕に選ばれただけのことはあらァ」
 
 夕神は急須から茶を注いだばかりの熱い湯呑みを二つ持ち、一つを茜に手渡した。
 
「あちちち……」
 
 ふうふうと息を吹きかけて熱を覚ます茜に目を細める。何だか少し、心音と彼女が重なって見えた。
 
「ついさっき、御剣の旦那が成の字……成歩堂龍一達とクライン王国に向かった」
「ぶっ、へ……御剣検事さんが?」
 
 お茶を吹き出しかけるほど驚いた茜が、口元を拭いながら夕神を見上げる。
 
「御剣の旦那が国外へ動くなんてよっぽどだ。あの国で何か大きい事が起きてるンじゃねェか? おめえさん何か知らねェかい」
「……いえ、今のところは何も」
「へっ、そうかい。おめえさんにも知らされてねェのかい」
 
 茜は、ナユタ検事の要請で日本とクライン王国を行き来している。だが、刑事事件が起きなければ、呼ばれることはないはずだ。
 つまり、まだ表面化していない何かの事件に成歩堂達が関わっているに違いない。
 
「成歩堂さんだけじゃなくて、あの子たちも向かったんですね。なんだか……嫌な予感しかしません」
「……考えたくもねェが、同感だ」
 
 湯呑みの中でユラユラゆれる茶葉の欠片を見つめた後、茜はズズッとお茶を飲む。
 
「夕神検事、クライン王国の特殊な法廷制度のこと知ってますか」
「……妙な託宣とかいう手法で霊に死んだときの話を聞くらしいな。その言葉は絶対で、弁護士は必要とされない場……のようだなァ」
「それだけじゃありません。 ……『弁護罪』があるんです」
「弁護罪?」
 
 夕神は自分の持っていた湯呑みをテーブルに置くと、デスクの上に置いたままの御剣の資料をめくった。それは、まだ目を通しきれていない最後のページに記載されている。読み進める前に、茜がそれを口にした。
 
「……弁護罪は二十年ほど前にクラインで制定された法律だそうです。被告人が有罪になった場合、弁護した弁護人も同じ罪に問われて……」
「……なンだと? つまり被告人が殺人罪で有罪になりゃ……」
「相応の罪で弁護士側も……裁かれると思います」
 
 沈黙が検事室に流れる。弁護士を目の敵のように排除しようという国。今、あの国で弁護士として闘っているのは成歩堂しかいない。そんな中へあと二人も飛び込んだ。
 
「相変わらずとんでもねェ事件にばかり首を突っ込みやがる」
 
 それまで絶対とされてきた《御霊の託宣》を破ってきたと言っても、次も必ずうまくいくとは限らない。
『弁護罪』、それが書かれたページを夕神はグシャリと握る。知っていたのだろうか、心音は。だから顔を見せに来たのか。だから御剣も彼女を自分に会わせたのか。
 ……数年、あるいは二度と逢えない可能性があるから。
 
「チイィ……!」
 
 夕神がドンッと机を拳で叩くと、それまで大人しくしていたギンが驚いた様子で飛び退いた。そのままツカツカと部屋の入り口とへ進み、ハンガーラックからジャケットをもぎ取った。
 
「ゆ、夕神検事、一体どこへ!?」
「……クラインだ。他に行くところなンてねェ」
 
 殺気が漂う夕神に、茜は顔を青くして追いすがる。
 
「だっ、ダメですよ! ただでさえ検事局は今、人手不足なんですから! 御剣検事さんも居ないのに、夕神検事まで居なくなったりしたら誰が日本の法廷に立つんですか!」
「あァ? ンなモン、バンドのニーチャンに任せときゃァ全部収まらァ」
「バンドのニーチャンって……あっ、牙琉検事のことですか? 余計駄目ですって、あんなムチャクチャな人! お願いです、夕神検事! 科学捜査官……いえ、刑事代表としてお願いします!!」
 
 腕をつかむ茜の力が想像以上に強く、夕神は舌打ちをして羽織りかけていたジャケットを脱ぐ。それに安心したかのように茜もほっと胸を撫で下ろした。
 
「はあ、夕神検事がこんなに熱い人だったなんてびっくりですよ」
「…………」
 
 薄茶色の羽根が辺りに舞い、ギンが再び夕神の肩に戻る。
 ……何のために。何のために戻ってきたんだ、牢獄から。彼女に寄り添えないでいて。
 
「……すまねェ。いろいろ聞けて助かった」
「それなら良かったですけど、早まらないでくださいね。お願いですから。……じゃあ、あたし行きますね。早くこれ整理しないとナユタ検事にドヤされちゃうんで」
 
 茜はよっと掛け声を上げてダンボールを持ち上げる。
 どうやら見た目以上に重さがあるらしくわずかによろめくも、すぐに持ち直した。
 両手の塞がった彼女を見て、検事室の扉を開けてやる。彼女は嬉しそうに頭を下げた。
 
「おめえさんも気ィつけなァ。あンまり一人の検事につきっきりでいると、例のニーチャンが妙に不機嫌でかなわねェ」
「ほんっとあの人……。もうそのまま放っといてください。きっと人をこき使いたいだけなんだから」
 
 そう言うと、茜はもう一度会釈をしてヨロヨロと廊下を歩き始めた。
 夕神はそれを見送って再び自室へと戻り、それまで彼女が座っていたソファーに腰掛ける。
 
「……ココネ」
 
 このあいだ法廷で隣に立ったのが遠い昔のようだった。
 まだまだヒヨッコで、強がりだけは一人前。劣勢になればすぐにおどおどし、感受性の高さに自分の意思がついていかず、大衆の声に大きく左右される。
 信頼のおける上司や先輩弁護士に囲まれているものの、不安はすべて拭いきれない。彼らが立つのも、常にギリギリの状況なのだから。
 
「クッ……!」
 
 守りたいものは同じ世界にいるのに、どうして届かない。事情を知ってどうだった。何ができた。どちらであっても自分には……。
 
「結局護守ひとつ、渡せただけか」
 
 天井を仰ぐと、背もたれに自由を得た髪が広がった。
 雲の多い夕暮れが、光を時折影に変えて窓の外から検事室を照らしていた。
 
 
 
 心音と御剣が夕神の検事室を訪ねてきてから、早くも数日が経った。夕神の髪には心音に渡したのとは別の組紐がきつく巻き止められており、これまでと変わらない検事としての毎日を送っていた。逸る気持ちを抑えながら、だ。
 特殊な法廷で行われた成歩堂による前代未聞の裁判は、遠く離れた日本でもワイドショーを賑わせていた。
 だがそれも、クライン王国の法務大臣であり、女王の夫であるインガ・カルクール・クラインの死によって、一気に報道を加速させた。
 国の大重要人物が殺されたともあって、クライン王国の法律制度の歴史やその矛盾、さらに危険性や霊媒の怪しさなど、どこから連れてきたのかわからない専門家やコメンテーターも交えて、耳障りなほど勝手な見解が飛び交っている。
 知りたいのはそんな情報ではない。心音達の無事だ。
 夕神の懸念していた通り、大きな事件があの国で起きてしまった。弁護士不在の国で起きた重大事件に、お人好しの彼らが関わっていないはずがない。
 毎日同じ議論を繰り返す番組に嫌気が差し、夕神は先日検事室に無理矢理持ち込んだばかりのテレビの電源を元から引っこ抜いた。
 
『今度はナルホドさんやオドロキ先輩の……ううん、何より依頼人の力になりたいんです! 皆に頼ってばっかりで守ってもらうのはもう嫌なんです』
 
 あの日の心音の言葉を頭のなかで反芻させた。外はいつの間にか日が落ち、窓から車のヘッドライトの灯りがチラチラと差し込む。
 心にどす黒く沈む感情をすべて出し切るように深く息を吐くと、夕神は自分の椅子に腰掛けて背もたれに身を預けた。
 状況がどんなに不利であっても、誰かのために闘おうとする。それが彼女の目指す弁護士だ。信じてやりたい。そして、彼女の周りにいる彼らを信じたい。けれど、頭に過ぎるのはやはり、あの国を歪ませている弁護罪の存在だ。
 国の根幹に関わっているインガ殺害の被告人がもし有罪であったなら、弁護士も恐らく極刑は免れない。それほどの事態なのにどうして自分は日本に留まらねばならないだろう。あの日から何度も何度も問い続けている。
 ……歯痒かった。待つことしかできない自分が。最悪の事態は避けてくれと祈ることしかできない自分が。
 
「ココネ……」
 
 額に手のひらを押し付けた。それは、自分の声とは思えないほど弱々しく、震えているように耳に届いた。本当に弱いのはもしかしたら……夕神迅自身なのかもしれない。
 
「ッ……!?」
 
 突然、検事室のドアが音を立てて開き、廊下の明かりが眩しく辺りを照らした。反射的に身を起こして光の向こうに目を細める。眩い灯りの中に人影が佇んでいる。
 
「待たせたな、夕神」
 
 余裕と自信に満ち溢れた、聞き慣れた声が響いた。光に慣れた目がその人物の姿を、顔をはっきりと映し出していく。
 
「御剣の……旦那」
 
 名前を呼ぶと、やはり不敵な笑みを浮かべた御剣怜侍その人がそこに立っていた。
 
「……アンタがこうしてここに居るってェことは……」
 
 御剣は人差し指を顔の前に出して夕神の言葉を遮ると、大きく腕を広げて視線を向け直す。
 
「その答えはキミ自身の目で確かめてみることだな。成歩堂の事務所に向かいたまえ。私としては今すぐをオススメする」
 
 彼が言い終わらないうちに夕神は、入り口のジャケットを引っ掴んで検事室を飛び出した。全力疾走など決して自分の柄ではない。けれど、そうしなければいられなかった。
 
「フッ……。元囚人検事という肩書を持ちながら、意外と可愛い面があるものだ」
 
 そう呟いて御剣も検事室を後にした。主も御剣も居なくなった部屋で、残されたギンがひとつ喉を鳴らした。
 
 
 
 
「……ココネッ!!」
 
 成歩堂なんでも事務所に割れんばかりの大声とドアを押し開けた音が響き渡った。
 自分に注目する顔、顔、顔。まるで何かの押し入りか、とでもいうような表情を隠せない成歩堂龍一。大きく開けた口を抑える彼の娘のみゆき、さらに初めて顔を見る黒髪で不思議な雰囲気を纏う女性。そして。
 
「ゆっ、夕神さん!?」
 
 夕神がこの数日、ずっと気にかけていた希月心音の姿だった。
 
「えっ、どうしッ……!? ひゃ、ひゃあああッ!?」
 
 彼女の戸惑いも周囲の目も構わず、夕神はその大きな体で心音を包み込んだ。
 心音の高い位置で結った髪が大きく揺れる。少し遅れたのは、日本を出る前に御守代わりに結んだ夕神の髪紐だ。
 
 (コイツも無事……だったか)
 
 視界の隅で紐の先の行く末を見た後、彼女が目の前に居ることを、生きていることを実感するかのように腕に力を込める。柔らかい体に次第に熱が帯びるのを感じて、彼女の肩に顔を埋めながら思わず夕神は大きく息を吸い込んだ。
 
「なっ、ええええー!! ユガミ検事!? あっ、こらみぬき! お前にはまだ早いって!」
「ちょっと、パパ! みぬきだってちょっとくらい見せてよー!」
 
 慌てた成歩堂がみぬきの目を両手で覆って二人に背を向けると、彼女はふくれ面をして反抗の声をあげる。
 
「きゃー! なるほどくん、なるほどくん! 誰だれ? ここねちゃんのかれし?」
「うーん、紹介するにはちょっと長く……じゃなくて! 真宵ちゃんもいつの間にそんな言葉を覚えて……」
「そりゃあ、マヨイちゃんもそこそこいいお年頃ですから」
 
 もう一人の女性もいかにも興味津々という感じで夕神達に注目していたのだが、成歩堂に窘められてみぬきと同じような顔をした。
 周囲がどれほど騒ごうと、今の夕神には関係なかった。
 
「あー……ええっと、ユガミ検事?」
 
 もうカンベンしてくれ、と言わんばかりの声音で成歩堂が呼びかけた。顔を上げた夕神の射抜くような目線に成歩堂が少したじろぐ。
 
「きょ、今日のところはぼくらも解散するので……。ええっと……その、ココネちゃんも帰って大丈夫だからね!」
「な、な、ナルホドさん、わたしはまだ……って、ひゃああああッ!」
 
 夕神は心音を腰の下からそのまま肩に抱え上げると、脇にあった彼女の旅行用キャリーケースを掴んで入り口へと歩き始めた。
 
「ちょっ、ちょっと夕神さん! 降ろしてくださいよ、もー!!」
「な……なんだか、ちょっとデジャヴを感じるな……」
 
 暴れる心音をも気にも止めずに開けっ放しになったドアノブを掴んだ夕神だったが、そこで歩を止める。肩越しに成歩堂を見て、すぐに戻した。
 
「……無事に連れ帰ってくれて助かった、成の字」
「ユガミ検事……」
 
 不意の言葉に成歩堂の手の力が緩み、ようやくみぬきが解放されたようだった。その様子を見ることもなく、夕神は心音を担いだまま、成歩堂なんでも事務所を後にした。
 
 
 
「ちょっと! いい加減降ろしてくださいってば、夕神さん! 恥ずかしいじゃないですか!」
 
 ようやく人気の少ない路地に差し掛かり、心音は抗議の声を上げた。夕神は心音の言葉など聞こえていないかのように、帰路を進み続ける。
 
「……もしかして怒ってます? 日本に戻ってきてからすぐに検事局に行かなかったから」
 
 夕神は返事をしなかった。月の綺麗な澄んだ空の下、切れかけた電灯と遠くのビルの灯りがユラユラと浮かぶ細道を黙々と歩いていく。夕神の引きずるキャリーケースの音と心音の声だけが辺りにこだましていた。
 
「もー! だからちゃんと話してくださいってば、夕神さん! ……って、うわっ!」
 
 歩を止めると、勢いを抑えきれなかった心音が大きくぐらついた。それを簡単にいなしてバランスを取ると夕神はスーツのポケットから鍵を取り出した。
 
「ここって……」
 
 体をのけぞるように周囲を確認して、ようやく心音は気がついたようだ。塀に囲まれたやや古い立派な日本家屋。ここは、夕神迅の住む家だ。
 夕神が比較的自由な右手を扉に押し当てて力を込めると、重苦しい音を立てながら入り口が開く。その仰々しい門をくぐってようやく玄関があらわれた。数えるほどしかここに訪れていない心音にとっては、入り口をくぐるのすらいつも圧巻のようだ。
 
「えっ、あっ、ゆ、夕神さん!?」
 
 ここまで来ればようやく降りられるかと踏んでいたらしい心音が戸惑いの声をあげる。夕神は自分の靴を脱いだ後、器用に心音の靴も脱がせると、キャリーケースを放置して家の中へとあがった。慌てた心音の声も聞いているのか聞いていないのか、夕神はそのまま長い廊下を進み、障子を開けるとついに心音をその場に降ろした。
 障子紙から透ける月明かりでようやくそこが、畳の敷かれたその広い空間だとわかる。
 
「夕神さん、本当にどうし……ッ!」
「黙りなァ!」
 
 そう一喝すると、心音は虚を突かれたのかビクッと肩を跳ねさせて押し黙った。反射的に握られた左のこぶしが胸元の前で震えている。手首に巻かれた髪紐も彼女に合わせて揺れていた。そっと彼女の両肩に手を添える。それすら大袈裟なほど心音の体が波打った。
 
「……そのままちぃっと黙ってなァ」
「ん !? んんっ……ぅ!」
 
 夕神は静かに自分の唇を心音のそれに押し当てた。彼女の無事を目で見て確認したときから、すぐにでもこうしたくて堪らなかった。場所や周囲のことなど忘れて、心音が傍にいることを、隣りにいることを強く実感したくて。唇だけでは足りない。舌を絡め合うだけでは足りない。この場に居る彼女の存在を、ぬくもりを全て感じておきたかった。
 
「ん、ふぁっ、んんっ……ッ」
 
 酸素を求めて開く彼女の唇を、自分のそれで埋めた。
 辿々しく戸惑いながら動く舌も逃さないように吸い上げた。
 
「ゆ、う ……ッ、んっ……」
 
 心音の口の端から唾液が一筋溢れるのも構わず、何度も角度を変えて喰らいついた。お互いの熱い吐息がまたお互いの体温を上げていく。ガクンと心音の膝から力が抜ける。口づけを続けたまま、夕神は彼女の背を支えて畳の上へ組み敷いた。それでもなお、夕神は彼女を味わうのを止めようとはしなかった。
 瞼を閉じたまま、武骨な手のひらを彼女の体に這わせた。呼吸をしたいのと、肌が反応してしまうのとで心音が身をよじらせる。御守を結わえた腕から手を重ねるように滑らせる。夕神の人差し指が結び目をひっかけ、はらりとほどけた。二人の手が重なり合ってようやく夕神は唇を離す。つぅっと細糸が二人の間に伸びて消えた。
 
「……まだだ」
「えっ、あ……」
  
 --サンプルここまで--
  
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