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すれ違い【堂上 篤×笠原 郁】

「またおとり捜査ですか?」
郁は半ば呆れるような声を上げた。
以前、毬江のためにと意気込んで勝手出た痴漢のおとり捜査。
それ以降、成果に満足した玄田は、こうして度々郁に痴漢撲滅の任務を命ずる。
確かに不埒な人間は郁としても蹴り飛ばして締め上げたい。
けれど毎度ながら、あの自分の尻や太ももに触れられる感覚はおぞましくて好きではない。
「図書特殊部隊の一員という優秀な人材にして、唯一の女性隊員だ。お前しか適任はおるまい」
自分の身は自分で守れる人間だから、という意味を込めているのだろう。
玄田は鼻息荒く声を発した。
「いいな、堂上」
念を押されたのが、自分ではないことに郁は目をパチパチさせた。
隣にいる上官であり恋人でもある堂上を見ると、彼は苦虫を噛み潰したような表情で玄田を見ていた。
(……前は即、使いましょうだの、餌は各種取り揃えるべき、なんて言ってたのに……)
恋人として感情を露にしてくれてるんだ。
そう思えたら、なんだか嬉しくてたまらなかった。
「笠原、やります! 図書館内の痴漢を全て滅亡させます!!」
敬礼しながら勢い良く答えると、玄田は満足そうに笑い、堂上は忌々しそうにため息をついた。
背後から小牧の笑い声も聞こえたが、郁のやる気はますます上昇するばかりだった。

「ホント、減らないね。次から次へと」
小牧はそう言って、いつものビールをぐいっと喉に流し込んだ。
向かいの堂上を見れば、不機嫌の極みのような顔で4本目の缶を開けようとしているところだった。
「……全くだ。またアイツに嫌な思いをさせる」
プシュッと気持ちのいい音がして、こぼれそうになる泡をすする。
彼の部屋に来て正解だった、と小牧は思った。
愚痴をこぼせば、少し気もまぎれる。
愛しい毬江が、図書館内で痴漢に遭った日のことを思い出した。
近くにいられなかったことを悔やんだ。
自分の大事な人に触れられたことに怒りがわいた。
酷く傷つけられたことに憤った。
わざわざ痴漢を煽る真似を、むしろ触られた方が好都合という状況に恋人を向かわせることがどんなに辛いだろうか。
「ちゃんとフォローしてあげてよ。作戦中だけでなく、心のケアもね」
「お前に言われずとも……わかっている」
苛立った声を上げて、堂上は開けたばかりのそれを一気に飲み干した。
━━━━あまりこの話題を長引かせるのはよそう。
小牧は今日あった出来事に思いを巡らせた。
そういえば、と口を開いた。
「今日、堂上に来客があったな」
「……なんだ。聞いてないぞ」
「堂上、外の巡回中だったからね。すぐには出られないことを伝えたら、じゃあいいですってそのまま帰っていったよ」
堂上が眉間に皺を寄せて怪訝そうな顔をした。
「僕らと同年代くらいの女の人」
更に皺が深くなった。
思い当たる節がないのか、いろいろ思い倦ねている様子だ。
「どんな人だった」
「髪の長さは……柴崎さんくらいかな。でも、ふわふわウェーブしている感じで。雰囲気は、そうだな。毬江ちゃんに近いかな」
「……」
ハッとしたような顔をして、堂上は空になったビール缶を握りつぶした。
「やっぱり知っている人?」
堂上は言葉を探して一言。
「……昔馴染みだ」
とつぶやいた。
━━━━ワケあり、か。
堂上の様子に小牧はピンと来た。
だてに長い付き合いではない。
「今度来たら通す?」
一応、そう述べた。堂上ともう一人を気遣えば、の問いだ。
そのもう一人を思えば、断ってくれた方がいい。けれど。
「ああ、頼む」
━━━━堂上は、そう言うだろうね。
「了解。業務部にも連絡しておくよ」
答えて、小牧も手元のビールを空けるべく飲み始めた。
少し開いた窓から流れ込む夜風は、まだ肌寒かった。

「カ・ン・ペ・キ! これで振り向かない男なんていないわ!」
本部の堂上班を前に、柴崎が満面の笑みで郁の背中を押した。
図書館に寄せられた、大人しそうな女性を狙う、という手口から、柴崎が行ったチョイスは、胸元にワンポイントのリボンがある清楚なベージュの無地のカットソーに黒の柔らかいスカート。
短すぎない絶妙な長さで、笠原の長い足がよく映えるようにしている。
生足のほうが私の好みなんだけど、などと言いながら、『大人しそう』という特徴を重視して、肌の色に近いストッキングを起用した。
髪型はウィッグを使って、見ただけで活発な郁の印象を和らげており、ふんわり感にプラスして細めのカチューシャが添えられている。
もちろん化粧にも一切のブレは無い。
「笠原さん、素敵だよ。いつもの元気な感じもいいけど、こういった風も似合うんだね」
一番に言ってくれたのは小牧だ。
照れながら、礼をする。
手塚は以前と同様に目を白黒させて、何故猿がこうなる……と呟いているし、玄田は愉快そうに笑っている。
堂上は、と目線を動かした。
と、彼は目を合わせないように反らした。
なんだか少しムッとする。
(何か言ってくれても良いのに!)
自分でも見違えるほどなのだから、小牧ほどでないにしろ、一言二言あったって良い。
「心配でしょうがないのよ。わかってあげなさい」
郁の様子を見て、柴崎が耳元で囁いた。
乗り気でないのは知っている。
それでも、可愛い格好をしているときには声をかけて欲しいと願ってしまうのは乙女心だ。
(せめて……)
せめて、頑張ってこいと背中を押してくれたなら。
それで心も晴れるのに。
あの時は意気込んだものの、気が滅入るのは確かだ。
「それでは各自休憩を入れて、決行は、目撃情報から鑑みて、一四〇〇からとする。笠原、気合いを入れろよ」
「はい!」
玄田の声に背筋を伸ばして敬礼する。
いよいよだ。ひとつ深呼吸した。
「それと、堂上」
「……はい」
呼ばれ、堂上も姿勢を正した。
「お前は巡回に加われ。向こうの班の人手が足りん。小牧と手塚は、笠原から目を離すな。いいな」
「!」
堂上が作戦から外された。
班員全員が息を飲む。
「そんな! 堂上二正は班長ですよ!? 作戦に参加しないなど……っ」
反論する手塚を柴崎が抑えた。
仕方ない、と言うかのように頭を振る。
ぽんっと、堂上の肩に玄田が手を置き、短く何かを呟いてすぐに離れた。
「……了解、しました」
堂上が答えると、すまんな、と玄田が小さく答えた。
「では、一旦解散!」
豪快だが凛とした声が響き、玄田は本部から退室していった。
それを見て、手塚が悔しそうに絞り出す。
「納得できません。どうして堂上二正が外されるんです!? 班長を外すなんてどうかしている」
「通常ならね。でも、今はそうじゃないから」
小牧は堂上のそばに寄って、他の誰にも聞こえないように声を低くした。
「公私混同して冷静な対処ができない恐れがあると、判断されたんだね」
「……やむを得ん。自分が隊長の立場ならそうするだろう」
そう思わせてしまったのは自分だ、と。
言おうとした言葉を飲み込んだ。
小牧が堂上の背を叩く。
正論。
それ以上小牧が言わないのは、正論だからだ。
グッと下唇を噛んだ。
「はいはーい! 手塚、ご飯いきましょ? 小牧教官も如何ですか?」
重い空気を弾け飛ばすかのように明るく、柴崎が言う。
「はあ? 笠原といけばいいだろ? どうして俺が」
「手塚君。柴崎さん、ご一緒しよう。女性とランチなのに食堂ですまないね」
「いーえっ! 教官が一緒ならどこでも。じゃあ、笠原。がんばってね!」
柴崎と小牧に引きずられるようにして、手塚も本部をあとにした。
残されたのは、郁と堂上だ。
━━━━班長を外すなんてどうかしている。
手塚の言葉がフラッシュバックする。
なんて声をかけたら良いんだろう。
今は通常でないと、小牧が言った。
それは、どういうことなんだろう。
ぐるぐる考えれば考えるほど、答えは出てこなくて静寂に焦るばかりだ。
服装を褒めて欲しい、などという甘い気持ちはどこかへ飛んでいってしまっていた。
「…………昼はどうするつもりだ」
「へあっ!?」
急に話しかけられて郁の口からおかしな声が出た。
振り返ると堂上だ。
今の郁の反応に不機嫌が一割追加されたことは間違いない。
「え……えと……あまり食べる気にもなれないし……その、この格好でフラフラするのもなーっと……」
しどろもどろで答える。
何故自分がこうも気まずい気持ちにならなきゃいけないんだろう。
「……なら、付き合え」
「えっ!?」
ぐいっと、手を引かれた。
堂上はそのまま歩き出す。
「どっ、堂上教官!?」
「黙ってついてこい!」
有無を言わさぬその言葉通りに押し黙った。
履き慣れないパンプスで突っかかりながら、連れてこられたのはひと気の無い会議室だった。
「ひゃっ!?」
入るなり、郁は強い力で抱きしめられた。
2人の間に一ミリも隙間は許さないとばかりの抱擁だった。
「堂上……教官?」
気づけば口の中はカラカラに乾いていて、名前を呼ぶもかすれていた。
「……上官としては、労いの言葉を持って戦地に送り出すべきだが」
肩越しに囁かれ、それはちょうど郁の耳をくすぐった。
「どうしても言ってやれない。どこぞの輩に色目を使えなどと、俺からどうして言える」
絞り出すように堂上は言った。
仕事に誇りを持ち続け、ルールや規律を尊重する堂上が。
自分のために公私で揺れている。
柴崎曰く、鈍いの代名詞である郁でもわかった。
「郁」
呼ばれてドキッとした。
彼が涙を流したところなど一度も見たことがないのに、何故か泣いてしまいそうに思えた。
それほど、堂上の声音は震えていた。
「前にお前を無理矢理外したことがあったが━━」
小田原のときのことだ。
そっと、堂上が体を離して、いつもより少し高くなった郁の顔を見上げた。
「意に介さない人事がこれほど辛いとは思わなかった。……すまない」
その謝罪が、小田原のときのことか、今のことか、どちらのものかがわからなかった。
あるいは両方のことなのかもしれない。
いつもまっすぐ前を見ている顔が、弱々しく自分を見つめている。
目頭がじんわりと熱くなった。
「……アホウ。せっかく綺麗にしたのに泣くヤツがあるか」
ああ、なんでこんなときに綺麗とか言うかな。
「教官がそんな顔するから……っ」
自分のために苦しんでくれているのがわかるから。
嫌だ、やめろという言葉を必死で抑えてくれているのがわかるから。
「……終わってからにしろ。それならいくらでも泣いていい」
「教官も……泣いていいんです……よ?」
「……アホか、貴様」
また抱きしめられた。
本当は顔を埋めて泣きじゃくりたいのを堪える。
今泣いたら、全てが台無しだ。
「……それでも、あたし」
「ん?」
「やっぱり教官に“行ってこい”って言われたいです。教官があたしを信頼してくれてる、見ててくれてるって思えるから」
郁は堂上の制服をかるく握った。
「お願いします……」
堂上は少し驚いたような表情を浮かべて、少し思案した後、右手を郁に伸ばした。
「……少しかがめ」
言われたように腰を低くする。
すぐにふわりと彼の手が降りてきた。
「行ってこい。終わったら……覚悟しろ」
いつものように少し撫でて親指でクシュクシュっと弄んで。
「覚悟って……なんの?」
「それは……っ、……言わせるな、アホウ」
真っ赤な顔をして、堂上は決まりが悪そうに視線を反らした。

作戦開始から一時間が過ぎようとしていた。
目撃情報から照らし合わせた、やや長い黒髪、セミオート型フレームの眼鏡に大きなボストンバッグ、やや小太りなる人物はまだ現れる気配がない。
(場所を変えたほうがいいかな……)
あまり人が寄らない、百科事典のブースでいろいろと読んで様子を伺ってみたものの、そろそろ限界に思えてきた。
開いていた本を閉じようとした瞬間だった。
━━━━来た。
一気に緊張が高まった。
郁の背後から、熱い息づかいが聞こえてくる。
床に置かれたボストンバッグ。
これは毬江のときと同じようにカメラが仕込まれているに違いない。
ああ、なんで揃いも揃って同じような手口なんだろう。
少し身じろぎするように横にずれる。
けれど、その男は郁に合わせて体を動かした。
ゾクッと、身震いした。
何度感じても慣れない、慣れたくもない感触だった。
男の手が郁の臀部に触れた。
「ちょっ……」
小さく言葉を発した。
相手の顔を拝もうと身を捩った郁の目に飛び込んできたのは、痴漢の正体ではなく。
(堂上……教官……?)
男の遥か背後、けれど見間違えるはずはない。
その堂上に、見たことも無い女性が抱きつく瞬間だった。
「そんな……」
それは一瞬。けれどその一瞬が郁を動揺させた。
ピッ……!
小さな音がして、ストッキングを破られる。
そして。
「やっ……!?」
男のウインナーのような太い指が郁の弱い場所に這い寄って。
「っ、抑えろ!!!!」
どなるような声にハッとした。
これは小牧だ。
爆ぜるように飛び出した手塚が男を捉える。
両手両足をばたつかせて抵抗したが、無駄は明らかだった。
「大丈夫!? 笠原さん!」
「あっ……」
自分でも驚くほど弱々しい声を上げて郁は小牧を見上げた。
そこでやっと自分がへたり込んでいることに気づいた。
……こんなにも情けなく。
「堂上に連絡……っ」
「待って!!」
無線を入れようとする小牧の腕に縋り付いた。
「……堂上教官には……伝えないで下さい。あたしのこと」
「お願いしますっ! 心配かけたくないんです……っ!」
嘘をついた。
本当は真っ先に飛んできて欲しかった。
抱きしめて欲しかった。
あの暖かい胸に。
こんなに騒ぎが大きくなって、あれほど近くにいたのなら堂上がやってこないはずがない。
来なかったのはきっと、彼があの女の人とどこかへ向かったからなのだろう。
床にポタポタとしずくが落ちた。
2人がいた場所をもう一度見返す勇気もなく。
「…………努力する」
それが正論をモットーとする小牧の精一杯の言葉だろう。
静かに小牧の手が頭に降ってきて、郁は声を押し殺して泣いた。

「……っ、笠原!!」
本部の扉を勢い良く開いたかと思うと、顔に汗をにじませた堂上が立っていた。
緊急事以外、廊下は走るなと口を酸っぱくして言っていた彼が全速力でやってきたのは誰の目で見ても明白だった。
「今日は帰らせたよ。疲れていたようだったからね」
郁を探すその目を見て、机に寄りかかっていた小牧が答えた。
手塚は目を泳がせて、結局下を向く。
堂上はそうか、と落ち着かない様子で椅子に腰掛けた。
けれどすぐに立ち上がる。
「どこへ行く気?」
「女子寮だ。あいつの顔を見たい」
「やめときなよ。今は休ませてあげるべきだ」
「しかし!」
「堂上」
小牧は制するように名前を呼んだ。
落ち着け、という意味も込められている。
「……柴崎さんが彼女を看てる」
気にする必要は無い、とまでは言えなかった。
それは嘘になるからだ。
「男は現行犯で警察に連れてってもらったよ。上への報告書も提出済みだ」
「……そうか」
再び椅子に身を下ろした。
落ち着かない様子で手を組んだ堂上を一瞥すると、小牧は身を起こした。
「……小牧」
「なんだい」
堂上が小牧に体を向けた。
「お前は、俺にあいつのケアをしてやれ、と言ったな。何故今はそれを拒むような物言いをする」
小牧はしばしの沈黙の後、堂上の肩を叩いた。
「今がその時期じゃないからさ」
我ながら苦しいな、と小牧は思った。
けれどこれ以上はもう何も言えなかった。
ここを超えれば正論でなくなる。
「手塚、巡回の時間だ」
「は、はい」
呼ばれた手塚が立ち上がる。
小牧が外に出たのを見て、堂上に振り返った。
「堂上二正」
「なんだ?」
その目はまっすぐ堂上を見ていた。
「……あのとき、どこにおられたのですか? 自分はてっきり巡回中でももしものときはこちらに来るのではと思っていたので」
意外でした、と手塚は続けた。
「手塚ー?」
「はい!」
小牧に呼ばれ、手塚は答えを聞くことなく一礼して本部を出た。
扉の音と共に訪れた静寂は、堂上にとって、とてつもなく重いものだった。
「……郁」
数時間前の会議室でのことを思い出す。
抱きしめてやりたい。
けれどその資格が今の自分にあるだろうか。
小牧と手塚の言葉が、頭の中で繰り返し再生された。

「……とんだ事態になったものだわね」
ようやく寝付いた郁を眺めて、柴崎はこぼした。
郁のことはもちろん、堂上のことも業務部のツテで情報を得た。
(形勢は圧倒的に不利よ、堂上教官)
相手は、お嬢様風の美人。
郁とは正反対のタイプだ。
話していた内容からして、相当旧知の仲と想像できたらしい。
そして極めつけは。
(出会い頭に抱きつくなんて、友達止まりの男女ではあり得ないわよね、普通)
堂上についての情報と、痴漢現場の位置と時間を結べば間違いないだろう。
それに気を取られて、相手の行為を許してしまった。
普段の郁ならそうなる前に押さえ込んでいただろう。
そんな、惨いことを。
「ごめんね」
真っ赤に腫れた瞼を指でなぞって、呟いた。
あなたも女の子なのに。
自分が変わってあげることだって出来たはずなのに。
そんなこと言ったら、あなたは逆に私を守ろうとするわね。
柴崎は立ち上がり、そっと部屋の電気を落とした。

「あの人に会ったんだね、堂上」
「あの人?」
小牧の言葉に、手塚が繰り返す。
「……ああ」
ビール缶片手に、堂上が答えた。
小牧が手塚と共に堂上の部屋に詰めかけたのは理由がある。
1つは堂上が会ったという女性の話を聞くこと。
そしてもう1つは、郁と顔を合わせたがっているだろう堂上の牽制だ。
触れられたくない話題だと、不機嫌な顔が伝えている。
「なんだか熱烈な再会だったみたいだけど」
意図してトゲのある言い方にした。
ぶほっと、堂上がむせた。
━━━━やましいことという自覚はあるのか。
なかったらなかったで問題だけど、と小牧は心の中で毒づいた。
「堂上二正?」
話についていけない手塚が堂上の顔を見やる。
何度か咳き込んで口を開いた。
「昔馴染みだ」
「それはもう聞いたよ、どういった馴染みなの?」
逃げる隙は与えない。
「その……」
言い淀んだ後、観念したようにため息をつく。
「……図書大学校時代に助けた」
「助けた?」
「本屋でちょうど検閲にあって、彼女が良化隊に歯向かって殴られそうになったところを助けた」
はぁー……と小牧が大きな息を吐いて、体を反らした。
「何回そのシチュエーションで女の子助けてんの、王子様」
「うるさい、ほっとけ」
以前の堂上がそうだったように、そのときの彼も曲がったことは嫌いですぐに行動にうつす直情型タイプだったのだろう。
反射的に、王子様のように。
「で? その子がどうして今更」
図書大学校からの出会いとしたら、もう10年近く前になる。
「……告白された。ずっと俺を捜していたようだ」
「なっ……!」
手塚の顔がかっと赤くなった。
少し前には、違う人間を知りたいと理由で郁に付き合ってくれ、と言ったくせに、どうしてこう初々しいのだろう。
「罪作りだねえ、堂上も」
半分からかいで、半分憤りも込めて小牧は言った。
郁があんなに不安定な中、堂上にそんなことが起きていたなんて。
彼のせいではないにせよ、タイミングが悪すぎだ。
責任の一端は小牧自身にもある。
堂上に会いたいと言った女性を通せと業務部に伝えたのは自分だ。
「答えは当然……」
「断ったに決まっているだろう、アホウが!」
ドンっと、堂上は右手をテーブルに打ち付けた。
きっと堂上自身も薄々気づいている。
郁がどんな状態で、そんなときに自分が何をしていたかを。
「言え、小牧! 郁は何をされた!? 何が起きた!? あのとき、郁は━━」
「堂上二正!」
小牧に掴み掛かった堂上を手塚が引き離す。
ここまでか、と小牧はひとつ息を吐いた。
「……笠原さんらしくないと思っていたんだ。相手との間合いを取ろうとした瞬間、何かに気がそがれて」
出来れば言いたくない。
郁にとっては死んでも隠し通したい情報だろう。
小牧の表情で察して、手塚が続けた。
「油断した際に、ストッキングを破られたそうです。そしてそのまま指で……その」
明言を避けたが、そういうことなのだろう。
堂上は手塚の腕を振りほどいた。
「様子がおかしいとわかった瞬間に飛び出して男を抑えましたが、笠原は……」
「もう、酷い状態。腰は抜けてるし震えてるしで。だけど堂上には連絡するなと念を押されたよ。心配をかけたくないって」
「っ……!」
唇を噛んだ。強く握った拳が震えている。
「……そうか」
そう言って、堂上は立ち上がった。
「堂上!」
「……風に当たってくるだけだ」
小牧の声に答えた堂上の表情は、わからなかった。

いつか、キスをせがんだ郁に口づけた場所。
そこに堂上は立っていた。
寮から死角で、あまり人の来ないところだ。
コンクリートに腰掛け、空を仰いだ。
チラチラと瞬く星を見て自分を落ち着かせようとした。
約束を果たせなかった。
終わったら泣いていいと。
傷ついたであろうその心が満足するまで強く抱こうと思っていた。
巡回中にわざわざあの場所に行ったのは、何かあったら駆けつけようとしたからだ。
少しでも。
少しでも時間がずれていたなら。
過ぎたことを悔やむのは好きではない。
けれど、郁は間違いなく。
「気がそれたのは……俺が原因か」
突然の再会。
感極まった相手を抱きとめた。
ここでは話が出来ないと、図書館を出た。
その間に郁は。
「くそっ!」
悪いのは相手ではない。自分だ。
自分の行動が招いた結果だ。
━━━━今がその時期じゃないからさ。
小牧の言葉が頭をよぎる。
ああ、正論だよ。
今、俺が顔を合わせるべきじゃない。
余計に郁が傷つくだけだ。
なのに今すぐ、抱きしめたい。
強く強く抱きしめて。
他の男のことなんて忘れるほど愛して、愛して。
そう、したかった。
寮の明かりがポツポツと消え始めても、堂上はその場を動こうとはしなかった。

「笠原士長! 無事復活いたしましたー!」
昨日までのことが嘘のように朗らかな声が本部に響き渡った。
ニコニコと満面の笑みを浮かべた笠原にぽかんとした顔で声をかけたのは手塚だ。
「お前、本当に大丈夫か? 昨日の今日だぞ?」
「なになに? 手塚。心配してくれてんの? だーいじょうぶだって! 元気だけが取り柄だから、あたし!」
ケラケラと笑い声すらあげて、手塚の背をばしばしと叩く。
そしてすぐに小牧の元へと走り寄って敬礼する。
「小牧教官! 昨日はお騒がせしました! もうバッチシですのでよろしくお願いします」
「本当にもういいの? 今日休んでもよかったのに」
「いいです、いいです! 本当に大丈夫ですから」
と。郁と堂上の視線がかち合った。
堂上が口を開こうとした瞬間、目をそらした。
どう話してよいかわからなかった。
「さー! 今日もばりばりがんばるぞー!」
訓練も業務も巡回も、郁と堂上は一言も話すこと無く1日を終えた。
それは、お互いにお互いが遠慮しているかのようにひどく不自然で、痛々しく見えた。

お酒は苦手だ。
おいしいけれど、少ししか飲めない。
気持ち良くなって、すぐ寝入ってしまう。
飲みたくても止められてしまう。
……堂上教官に。
3杯目のカクテルを飲み干して、郁はため息をついた。
衝動的に入ってしまったバーは、図書館にほど近いビルの地下にある。
店内は意図的に明かりを絞っていて、ムーディな音楽も流れていて、居心地が良い。
あんなことがあったすぐ後に、こんな場所に1人で来るなんて、堂上や柴崎に伝わったら大目玉だろう。
(でも、飲みたい気分っていうのもあるわけよ!)
とにかく飲みたいなんて、初めて思ったけれど。
……堂上。
自分が考えている以上に、頭の中が彼に支配されていてまた涙が込み上げた。
痴漢よりも、堂上が知らない女の人と抱き合っていたほうがよっぽどショックだったなんて、どうして言えるだろう。
誰なのか、どういう関係なのか、なんて向こうから切り出されない限り、聞けるようなことじゃない。
「今日、やっぱり話せなかったな……」
堂上と話して、もうお前はいらない、と言われるのが怖くてたまらない。
そんな弱い自分を見せるのも好きじゃない。
もっと素直になれたら幾分マシなのだろうか。
「教官……」
目の前が少し揺らいだ。
(やば……飲みすぎたかな)
カウンターの椅子から転げ落ちそうになったところで、誰かに抱きとめられた。
「すみません……」
見上げた顔はぼんやりとしてよくわからない。
支えられるように背中に手を回され。
そこで郁は思考を手放した。

『堂上教官! 笠原見ませんでした!?』
堂上の携帯に柴崎が血相を変えて連絡を入れてきたのは、10時を回った頃だった。
「見ていないが……帰ってないのか?」
『それが一度戻ってはいるみたいなんですけど、全然連絡がなくて。携帯にも出ないし』
「わかった。思い当たる場所を探す。もう遅い。お前は寮から出るな」
『ちょっと教か……っ』
そう言って電話を切ると、堂上は急いで上着に腕を通して、寮を飛び出した。
……早まるんじゃないぞ。
そんな、縁起でもないことが頭をよぎる。
昼間馬鹿みたいに明るかった郁が、無理矢理そうしていることくらいすぐにわかった。
話そうと思えば腕ずくでもできたのに、しなかったのは郁に嫌われたのではないかという思いが邪魔をしたからだ。
あれだけ一緒にいるのに、不自然に避け続けた郁。
そう思われても仕方ないとさえ思った。
「堂上二正!」
図書館を出て、交差点に差し掛かったところで呼ばれて振り返る。
そこにいたのは、汗だくになった手塚だった。
手にはコンビニの袋が下げられている。
「……さっ、さっき、笠原が知らないヤツに車に乗せられてるの見かけて……追いかけたんですが見失いました」
すみません、こんなときに携帯忘れて、と息も絶え絶えに続けた。
恐らく走って堂上に伝えに来たのだろう。
すぐに想像がついた。
「どこに向かった!?」
「駅の近くの……っ、繁華街です」
頭が真っ白になりそうになる。
そんな場所に男と2人で?
何を考えているんだ、あいつは!
「堂上二正!」
信号が変わるやいなや、堂上は走り出した。
車で来れば良かった、などと思ったがとにかく今は走るしか無い。
繁華街はもう少し先だ。

「あ……れ……?」
定まらない視界に見慣れない天井が揺れた。
何度か瞬きして正常に戻った。
しきりの無い、大きな柔らかいベッド。
寮のものじゃない。
それはすぐにわかった。
どこかに似ている。
堂上と行ったどこか。
広い部屋に、大きなベッドがあって。
シャワーの音が心地よく聞こえて……。
「って、えっ!?」
ラブホテルだ。
そう思い立った瞬間、まどろんだ脳が目を覚ました。
どうしてこんなところに自分がいるのか。
思い出そうとしても頭がガンガンと痛みを伴って邪魔をする。
確かバーで飲んで、その後……。
「目が覚めたみたいだね」
突然した聞き慣れない声に、郁はビクっと体を震わせた。
見ればタオルを巻いた知らない男が立っていた。
濡れた金色の髪、揺れるピアス。
全く持って見覚えが無い。
「なんだ、覚えてないの? バーで失恋の傷癒してあげるって話、したでしょ?」
「えっ!? えっ!?」
いつそんな話をしたんだ、この男と!
自分自身に問いかけるが思い出せない。
逃げようと体を起こした瞬間、ぐらりと体勢が崩れた。
「おっと」
抱きとめられ、その感触にやっと思い出す。
バーでも同じように支えてくれた。
「あ、あたし! そんなつもりないからっ!」
「またまたー。ここまで来てそれはないでしょ」
ニヤニヤと笑うその口から覗く舌にもピアスが2つ煌めいた。
体に力が入らない。
まだアルコールは抜けてないのだ。
「やっ、やだ……っ!」
途端に怖くなった。
抵抗を忘れ、痴漢に良いようにされかけたことも思い起こされた。
「ね? 気持ちよくなろうよ」
息づかいを感じる距離に、身を震わせた。
恐怖しか感じない。
ふと堂上が頭をよぎる。
ああ、やっぱり自分にはあの人しかいないんだ。
「……きょ……かん……、堂上教官っ!」
バンッ! と、ドアを開ける大きな音がして誰かがバタバタと部屋になだれ込んだ。
「そいつを離せ!」
強い力で腕を引かれ、抱き寄せられた。
よく知った香りだ。
「悪いがこいつは連れて行く」
「なんだ、てめえっ!」
飛びかかろうとした相手を交わして、もう一度発せられたその声に。
「二度とこいつに寄るな。その時は俺も冷静じゃいられない」
息を飲んだ。
「堂上……教官……」
「アホウが。こんなところにノコノコついてきやがって」
そう言って郁の手を握り足早に歩き出す。
「待てよ、この野郎!」
振り返り様に堂上は男を睨みつけた。
その気迫に押され、男はへなへなとしゃがみ込んだ。
「行くぞ」
痛いほど郁の手を握りしめて、堂上はラブホテルを後にした。

ホテルを出てすぐに、堂上は柴崎に電話を入れた。
郁の無事と、そのことに対する手塚への伝言をして、通話を切った。
そして黙ってまた郁の手を引く。
なんとも声を発しにくい状況だ。
繁華街を抜け、人通りが少なくなった頃、先に口を開いたのは堂上だった。
「……ついていったのは、お前の意思か?」
「えっ?」
思わぬ問いに、一瞬言葉を無くす。
けれどすぐにそれを否定した。
「気づいたらあそこにいたんです。……あたし、お酒飲んで記憶無くて」
怒られる、そう思って身を竦めたが、返ってきたのはそうか、という一言だった。
沈黙が嫌で言葉を探す。
しかし思い当たったのはひとつしか無かった。
「……堂上教官は、あたしのこと、もう嫌いになりましたか?」
堂上が驚いた顔をして郁を振り返った。
「何を言っている」
「だって……」
言葉を続けようとしてそこで押し黙った。
抑えていた感情が涙となって溢れ出してきたからだ。
「男の人とあんなとこ行っちゃったし……っ、任された仕事もちゃんとできなかったし、それに……っ」
空いている左手で涙を拭った。
それでも途絶えることはない。
「綺麗な人と……抱き合ってたし……っ」
言うや否や、抱きしめられた。
おとり捜査の前に、会議室でそうされたよりももっと強く。
「すまない。言い訳をするつもりはない」
背中の腕に更に力が込められた。
「だが、信じて欲しい。お前を裏切るようなことは何もしていない。出来る訳ないだろう。こんなにお前のことが愛しくてたまらないのに」
郁の目尻に溜まった涙を、堂上は親指で拭った。
「傷ついたお前をこうして抱きしめてやれなかったのが苦しかった」
「きょう……か……」
言葉にならない声を出して、郁は泣きじゃくった。
郁の全てを包むかのように、堂上はそれを受け止める。
「こんな辛い思いをさせてすまなかった」
堂上の声に郁は大きく首を振る。
うまく喋れなくてただ泣くしかできなかった。
「今すぐにお前の全部を塗り替えてやりたい。だがそれではお前を傷つけるだけに思えて仕方ない」
きっとこれが、堂上の本心だ。
自分のことを本当に考えてくれる人。
どうしてそれを忘れてしまっていたんだろう。
「好き……っ、教官。好き……っ」
しゃっくりを交えて郁が言った言葉に堂上はやっと微笑んだ。
「俺も好きだ、郁」
まだ冷たい夜の風が、2人の間をすり抜けた。

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