「……モモシロくん? モモシロくんってばー」
「……ん? あぁ!」
桃城は、杏の疑問系から不機嫌系に変わった声に、やっと我に返った。
ついつい、周りから言うなら柄にもなく、本人からしてみれば割と頻繁に、なのだが、考え事をしていた。
「ワリワリー。なんかぼーっとしちまった」
そう、コートの向こう側にいる杏に言う。
久しぶりの部活のない休日。
とはいっても、やはりラケットを握らないのはなんだか落ち着かないもので、どこか壁打ちでもできるところはないかと探していたものの、やはりいつものようにこのストリートテニス場に、桃城は来ていた。
普段は、玉林中の布川たちやら、不動峰中の神尾やらが取り巻いているのに、なぜか今日は杏しかいなかった。
……というか、次の大会まで何週間もないってのに、突然の休みになった青学が特異なのか。
(相変わらず、セーラー服でプレイされっと、目のやり場に困るぜ)
レシーブの体制に入っている杏の、スカートが風になびいている。
短く感じるそれからは、白い彼女の脚がスラリと伸びている。
真後ろから見れば丸見えだ、なんて、今は想像する必要のないことを頭に巡らせてしまうのは、男の性、ってやつだろうか?
ボールを高く上げ、ラケットを振り下ろす。
心地良い音が、この桃城と杏の二人しかいないテニスコートに響いた。
桃城が考えていたのは、もちろんスカートがどうとか生足がこうとか、そういう事ではない。
(っと。相変わらず、のっけから遠い上に深いところを突いてきやがるぜ)
杏のボールが、自分から遠い端にめがけて弧を描く。
(……やっぱ、なんかブレてんな)
ボールに触れたラケットから伝わる、微細だが違和感のある振動。
以前、杏と打ち合ったときには感じなかったものだ。
「っええいっ!」
彼女に向かって、こちらも深い球を返す。
深く、それでいて速い……打ち返してもやっと……という球を。
体を前進させ、ネット際に立つ。
「きゃああっ」
狙っていた、中途半端な高い球。
右足で、地を蹴って、宙を。
「ダーンクスマッシュッッ!!」
相手コートに向かってボールをたたき落とす。
そして。
「どーん……ってな。6-1。俺の勝ち、だな」
「あぁ、もう。また負けちゃった……。んもう、女の子にはもっと優しくするもんだぞ!」
「なーんて言って、本気でやらなくても怒るだろ、お前は」
「へへへ。ま、そうなんだけどね」
杏は笑って、右手を差し出した。
桃城も手を伸ばそうとして、Tシャツで手のひらの汗をぬぐってから、もう一度差し出した。
握った手。
自分より細くて小さいそれに、少しドキッとする。
「そういえば、橘妹」
「ん?」
杏が小さく首を傾げた。
肩まで切り揃えられた髪がサラサラと流れる。
ふと、桃城の目線は、彼女の髪から瞳へ移った。
「っ!?」
「きゃっ」
桃城は、握手を交わしていていた手を振りほどくと、そのまま彼女の腕を掴み、自分の懐へと引き寄せた。
甘い香りが鼻をくすぐり、同時に、不意を付かれて杏が落としたラケットが、カラカラと地面を転がった。
「泣いて……たのか?」
「!?」
杏は、桃城から離れようと、即座に身をひこうとした。
けれど、それは叶わず、せめてと、顔をそむけた。
「何があった」
「…………」
「今日のお前の球、変なブレがあったからよ。何かあるんじゃねぇか、とは思ってたんだ」
「……そんな」
信じられない、という顔で、杏が桃城を見上げる。
今にも泣き出しそうだ。
桃城は、さらにぐいっと、彼女の頭を自分の胸へと押し付けた。
二人の体の間で、ネットが上下に揺れた。
「……ワリーな。ちょっと汗クセーかもな」
「そんな……こと……」
「言ってみろよ。……俺で良ければな」
杏のことだ。
きっと、誰にも言えずに抱え込んでいるに決まっている。
そう、桃城は思った。
誰にも言えずに、溜まったものを吐き出したくてここに来たんだろう。
なんでか、そんな気がした。
「……どうして、今日桃城くんしかいなかったんだろうなぁ」
そう言って杏は桃城のTシャツを掴んだ。
「桃城くんには、すぐにバレちゃう気がしたの」
「……そうか?」
「うん、桃城くんて人のこと気にしてないようで、結構気にしてるからさ」
明るい声。
けれど、かすかに震えている。
「レギュラー、取れなかったの。今度の大会。補欠にもなれなかった」
「お前が?」
桃城は少し驚いた。
今日は6-1だったにせよ、男に負けず劣らずの力強い球と、冷静さがある杏が。
「先輩たちに目をつけられちゃってね。氷帝の人たちと一緒に居たのが気に入らなかったみたい。そんなことで、レギュラー外されちゃうなんて、思ってもみなかった」
「はっ? そんなことで、か? だってお前、どう考えても主力級じゃないのか?」
あまりにも程度の低い理由に、桃城の声は思わず裏返った。
普通に考えて、青学では起こらない出来事だ。
……新人イジメなら、一部やっていたバカが居たが。
「……それは買いかぶりすぎだよ! でも、実力で評価されないのは……ツライね」
どうしたものか、と考えて、桃城は、杏の髪をゆっくりと撫でた。
杏がピクリッと肩を震わせた。
「わっ、わりぃ。その、なんか、つい、妹をなぐさめるときと同じようにやっちまった」
焦って、また声が上ずった。
どうにも格好がつかねーな、つかねーよ、と心のなかでため息を付く。
「……ふふ。桃城くんの妹さんは幸せ者だね。妹さんの特等席、奪っちゃったかな」
そうやって顔を上げた杏は、目尻の涙を人差し指で拭った。
「ありがとう。桃城くん。なんか、元気出たよ」
「お、おう。でもいいのか、それ。お前の兄ちゃんに言えば、なんとかなんじゃねーか」
桃城は、杏の兄で不動峰の部長の、橘桔平を思い出す。
気に入らないから、という理由でレギュラーから外す、というような真似は人一倍厳しそうな気がする。
「お兄ちゃんに言うと、また大騒ぎになっちゃうから。でもね」
「あん? うおっ」
一瞬、何が起きたのか桃城はわからなかった。
気づけば、自分の首に杏が腕を回していて────。
(抱き……つかれてる!?)
状況がわかって、桃城は赤面した。
自分の頬に彼女の頬が触れて。
それは汗でしっとり濡れて。
自分の鼓動がドクドクと音を立てて。
「先輩たちともう一度話してみる。それで、ちゃんと正式に自分の実力を見てもらう」
彼女が声を発するたび、耳がくすぐったい。
「本当に、本当にありがとうね、桃城くん!」
(よくわかんねーけど……ヤクトクってヤツだよな)
家に向かって自転車を漕ぎながら、桃城は思った。
(思ったより細っこいな、アイツ)
先ほどの出来事を思いだす。
自分から首を突っ込んだのに、あとあと考えてみれば、顔から火が出そうなことばかりだ。
(……しっかりハンノウしかけたしな、ホント俺って最低)
だが、最後の彼女の顔。
いつものように笑っていた。
桃城の好きなあの笑顔だった。
(また、会えるといいな)
自分も笑みを浮かべると、桃城はペダルを力いっぱい踏み込んだ。