それはとても速く、そしてゆっくりと。

「はー。ホンマ堪忍な、小日向」
「そんな! 私が……」
「ちゃうちゃう! 結局連れ出した俺がアカンのや」

どこからか、虫の声がする。
どこからか、川のせせらぎが聞こえる。

「……ケガしてないか。スマン、いっちゃん初めに聞かなあかんかったな」
「わ、私は大丈夫! 謙也さんは……」
「! 自分、手ェ、擦り剥いとるやないか! 何が大丈夫や!」

無人島での生活に慣れてきた、3日目の夜。
私は、どうしても眠れなくて、管理小屋を出た。
ずっとベッドの中にいたら、お父さんのことを考えてしまいそうで……。
少し、近くを歩いて気を紛らわそうかな、なんて思っていたんだけど……。

『こないな時間に、フラフラしてるんは、どこの悪い子ちゃんや?』
『け……謙也さん……』

たまたま、炊事場に水を飲みに来たという謙也さんに見つかってしまった。
本当なら、早く管理小屋に戻って寝てろって、言いたいんだろうけど……。
1人は危ないからと、私の夜の散歩に付いてきてくれた。
私のこと、気を使ってくれたみたいだった。
そして……。

「……ホンマ、俺サイッテーやな。女の子にケガさしてもーた」
「そんなことないです! 私が足を滑らせたのを助けてくれたじゃないですか!」
「アホ。一緒に斜面転げ落ちてたら助けたに入らへんわ。浪速のスピードスターが聞いて呆れるっちゅー話や」

私って、どうしてこんなにドジなんだろう。
歩いてる途中、足を滑らせて……。

『きゃっ!?』
『!! つぐみッ!』

落ちる瞬間、謙也さんが私の手を引っ張ってくれたのを覚えてる。
そのまま……えっと私……、謙也さんに抱きしめられ……て……。

「けっ、謙也さんッ! そ、その……」
「ん?」
「ああああ、あのっ! か、かかか体……ッ!!」
「から……だッ!? あああああああ、ス、スマンな!! つい気持ちよ……って、何言うとんじゃ、俺は!!」

落ちてからずっと、あの体勢のままだったなんて!?
私は、勢いよく謙也さんから体を離して、恥ずかしさに体を背けた。
顔中が熱くなるのを感じる。
謙也さん……すごくぎゅっとしてくれてた……。
心臓の音が鳴りやみそうにない。

「そ、そ、その。ケガしたとこ、ちょっと見せてみ」
「は……はい……」

私はもう一度、謙也さんに向き直った。
だけど……辺りが暗くて、薄ぼんやりしか、彼が見えない。

「謙也……さん」

なんだか無性に怖くなって、名前を呼んだ。

「なんや? どーした?」

やさしい声がする。
そして……。

「この位置なら、怖くないやろ? お前さんの顔がよお見える」
「謙也さん……」

そっと、私の手が握られた。
謙也さんの手は、とても暖かい。

「……痛ないか? 血ィ、にじんどるみたいや」
「ううん、痛くはないです。ちょっとヒリヒリす……ッ!?」
「……ッ……」

ピリッ、と。
小さな電流が走った。
そのあとすぐにやってきたのは、さっきとは比べ物にならないくらいの、熱。

「謙也さん!? な、何を!?」
「……ッ……消毒や」

ほんの一瞬だった。
それだけなのに、鼓動が一層大きく体中で鳴り響いた。

「これでもう大丈夫や。……どうした? 顔赤いな」
「……!!」

謙也さんが、ずずいっと私に顔を近づける。
顔と顔が近くて、こんなに暗いのにはっきりと見えて。

「……ごめんな、俺の姫さん……」
「え……?」

普段の明るい表情とは違う、眉尻の下がった顔。
息と入り混じった、掠れた謙也さんの声。
囁くように発せられたそれは、最後までは聞き取れなかった。

「……早う戻らんといかんな。あのゴンタクレが目を覚ましたら、えらい騒ぎになるで」

そう言って、謙也さんは立ちあがると、服や体についた土を払い落した。

「んー。思ったより上は高くないな。ちょっと頑張れば登れそうや」

そして、謙也さんは私にちょっと困ったような笑顔を向けた。

「ちぃーと俺と手を繋いでくれへんか。お姫さん。ごっつ荒いエスコートになりそうやけど」

少し間を置いて、ようやくそれが、私を引っ張り上げたいということだと気付いた。

「はい!」
「えぇ返事や! んなら、ちょっと待っとってな。……っと」

ぽんぽん。
頭に軽く触れられる。

「ほんの少し、離れてまうけど、すぐそこにおるからな。置いてったりせぇーへん」

今度は、いつも私をからかう時の表情だ。
私が頷くのを見ると、謙也さんは安心したように、斜面を登る。
そう言われなくても、私はもう、怖くなんてなかった。

謙也さんにたくさんドキドキしたから。
なんだろう、この気持ち。

「ほい。お手をどーぞ、姫さん」

繋がった手と手は、とても熱くて。
自分の鼓動が伝わらないかなんだか不安で。

「よぉー登れたな。ええ子やで」

でも、離したくはなくて。

「……! ……ほんなら、そこまで繋いで帰ろか」
「……はい……」

少し遠慮がちだったけれど。
なんだかとても安心した。

「ありがとうございます……謙也さん」
「? なんか言うたか?」
「……ううん、なんでもないです」

お父さんのことが心配で、まだまだ不安はいっぱいだけど。
もうちょっと、がんばれるかなって、そう思った。