03.「どうして…涙が出るんだろ」
「『ガイ様』なんて呼ばなくていいんだぜ。俺は君と同じ只の使用人だ」
泥の海と障気に包まれた空を見上げて、ガイはフィーネに言った。
ティアの部屋から続く白い花畑に、ガイとフィーネは二人で立っていた。
バチカルに居たときから気になってはいたのだが、フィーネはガイのことを必ず 『様』と敬称して呼ぶ。
屋敷のメイドや城の皆には彼女以外彼をそう呼ぶ者は居ない。
「そっそんなっ! え、えーとつい癖で!」
「癖? ナタリアやルークにはもうつけちゃ居ないだろう?」
問いつめられて一層フィーネはしどろもどろになる。
かといって貴方が私の主君だから、と言っても立場が危うくなるだけだ。
フィーネはかつてマルクト領の島、ホドを統治するガルディオス伯爵家に拾われ 、伯爵に彼の長男の3歳の誕生預言通り、ガイラルディアの影となり一生を生きる ことを誓った。
彼女にとってガイは生涯の主なのだ。
勿論、現在の主であるナタリアにも彼女は深い忠誠を誓っており敬称をつけたいのだが、 それはナタリアが許さなかった。
と言うより、敬称をつけないほうが返って王女の身の安全を確約できる。
それに、ガイはフィーネのことを思い出していないのだ。
フィーネは彼の記憶を無理矢理思い起こさせることはしたくなかった。
家族が殺されたときの記憶などむしろ覚えて居ないほうがいい。
伯爵様が、奥方様が、マリィ姉様が、メイド達が。
身の気のよだつ思いが一瞬、フィーネの胸のうちによぎった。
真っ赤な顔でどう言おうか思案した風なあと、瞳をふせてしまった彼女にガイは頬 を緩ませると、再び暗い空を見た。
「まぁいいさ。可愛いお嬢さんにそう言われるのも悪くないしな」
なんだかジェイドみたいだな、とガイは笑った。
普通ならドキッとするような台詞も、今はただ流れるように聞こえる。
彼が無理して笑っていることをフィーネは知っている。
当然だ。
アクゼリュスのことを思えば、ルークのことを思えば、笑って居られる筈がない 。
ガイの腕だって震えている。
無理して笑ったあと、一層苦しそうにしている。
もっと近付けたら。
お互い寄り添って肩を抱き合えたらどんなにいいだろうとフィーネは思った。
一方通行の想いと、ガイの女性恐怖症、自分の対人恐怖症。
3つの障壁はいつ崩れるのか知れない。
今はただ立っていることしか出来ない。
言葉では上辺しか伝わらない。
虚しさがフィーネの心に渦巻いた。
「……フィーネ、大丈夫か?」
言われて思わず、自分より背の高いガイを見る。
「涙が出てる」
彼が伸ばした手はフィーネに届く前に震え、彼女もビクリと体を震わせた。
すぐに彼は手を引っ込める。
ガイは唇を噛み、申し訳なさそうに彼女を見た。
「ごめん…。拭ってあげられなくて」
フィーネは首をふり、人差し指で涙を拭った。
「いいんです。…私もごめんなさい。どうして…涙が出るんだろ。もう出しつく したと思ったのに」
不自然な笑顔を作って止めようとしても次から次へと溢れてくる。
アクゼリュスのことや過去のこと、そしてガイへの想いがごちゃごちゃになり、フィ ーネの頬を涙となって濡らした。
「……全部流せよ。俺…何も出来ないけど、ここに居るから」
血だらけになって地面に突っ伏して泣いたあの日から、泣くのはいつもひとりだ った。
声をあげて泣いても、ただ空が虚しく吸い込むだけだった。
貴方がこの場に居るだけでなんでこんなに安心出来るんだろう。
お互い触れられなくても、ちゃんと人は支えられる。
けれど、彼女を抱き締められたらとガイは思った。
そうできたらもっと気持ちが落ち着くだろうに。
そう思った自分に少し驚きながら、ガイはフィーネが泣きやむまでずっとその場 所に居た。
タルタロスをセフィロトツリーを使って外郭まで浮上させる ————-
そんな驚くべ き発案が出たのは、フィーネが落ち着いてからすぐだった。
ルークを置いていくことに少し不安を抱いていたフィーネだったが、ナタリアと ガイがタルタロスに乗ると言うのでそちらに加わることにした。
『アッシュ』という人物に、フィーネはなかなか近付けないでいる。
仲間ですら近くに行くのは怖いのに、ほぼ初対面の彼に接触しろというのはフィ ーネにとって無理難題極まりなかった。
いや、ジェイドやティアやアニス、そしてミュウに会ったときはこれほどの恐怖 は感じていなかったので、原因はおそらくアッシュの独特の雰囲気にある。
淡々と、そしてぶっきらぼうに話すアッシュはどこか他人を寄せ付けまいとする 空気を持っているような感じがした。
ナタリアの近くに居たフィーネを一瞥したアッシュに、
「なんだお前は」
と言われたときは、生きた心地がしなかった。
蛇に睨まれたカエルのように只パクパクと口を動かすのが精一杯だったのである 。
彼から出来る限り遠くの位置に身を置くことにした。
それでも冷汗が止まることはなかったが。
***
ホドが戦争によって滅びたあと、フィーネは一時シェリダンに居た。
そこまでの経緯はフィーネ自身もよく覚えていない。
マルクト領土であったホドから戦争の真っ只中、キムラスカ領土であるシェリダ ンに行き着くことは非常に困難だったのだろうが。
ここでフィーネは基本的な音機関技術を身に付けた。
職人たちで溢れるこの街で自然と知識が頭に入ってきたのだろう。
活気に満ちたこの街のことがフィーネは大好きだった。
恐怖症のことも周りは皆理解してくれ、その暖かいひと達に囲まれたからこそ、 彼女は少し抵抗があるものの誰かに触れ、極少人数ずつならば会話が出来るとこ ろまで回復した。
然してフィーネは、ガイラルディアの行方を探しながらここで10年間を過ごす。
キムラスカの城で王女の世話役を欲しているという噂を聞いた。
職人の街、シェリダンではマルクト・キムラスカ両国の軍事品も扱っているため 、それぞれの噂が飛び交うのだが、ホドの生き残りに関する情報は得られなかっ た。
キムラスカの王城ならばきっとここ以上の収穫があるのではとフィーネは考えた のだ。
「本当に大丈夫かい、フィーネ」
心配そうに話しかけるタマラにフィーネはにこりと笑って返す。
笑顔を浮かべることができるようになったのも最近のことだ。
「ありがとう、タマラさん。本当にお世話になりました」
まだあどけなさの残る14歳の少女はその金色の髪を風に揺らして、また旅に出る。