「…どうした」
「なにがだ」
空はとうに暗い。
部活だってだいぶ前に終了したはずだ。
泥門デビルバッツの指令塔、蛭魔妖一は窓の桟に座ったまま月明かりでやっとわ かる武蔵厳の顔を横目で見た。
「姉崎さんと帰ったんじゃないのか」
ヒル魔は口に含んでいたガムをゴミ箱へと吐き飛ばした。
ムサシは静かに部室の戸を閉めた。
ハッカの匂いが鼻をくすぐる。
「知るか、あんな女」
何かあったな、とムサシは思った。
しかもこれは相当でかいことらしい。
ムサシは大きなため息をついた。
彼女のこととなりゃ、どうしようもねえからな。
こいつは。
普段怒れば辺り構わず怒鳴り散らす奴が、黙りこくっているのだ。
かなり腹を立てている。
「喧嘩でもしたのか?」
「…んなもん日常茶飯事だ」
ヒル魔は桟から下り、カジノテーブルの彼の定位置に乱暴に座った。
ムサシもその向かいに座る。
「…日常茶飯事だが…今日は泣かせた」
「泣いた?姉崎さんが?そりゃ何言って…」
「糞尻軽女」
「…そりゃお前」
泣くだろと言う言葉をムサシは飲み込んだ。
なぜヒル魔がそんなことを言ったのかそちらのほうが気になったからだ。
どう見たってまもりはヒル魔のことを好いて見えるし、ヒル魔以外の男になびく 様子など全くない。
これほどまでお互いを信頼しきっている二人にそんな会話が交わされたのが不思 議だ。
「どう考えても姉崎さんにはお前にぞっこんに見えるんだが」
「……。前にも聞いたなそのセリフ。他の男の誘いにほいほい乗ってく奴が『ぞ っこん』か」
嫉妬だ。
ムサシはその一言でやっと理解した。
誰もが恐れる蛭魔妖一が、ヤキモチを焼いているのだ。
思わず笑みがこぼれる。
「━━━━っ!笑うな糞ジジィッ」
気づいたヒル魔がどこから出したのか機関銃をムサシに向ける。
ムサシは両手を上げながら笑いをどうにか押さえた。
「珍しいな。どんなときも余裕なお前が」
「ケッ」
ヒル魔は迷惑そうに機関銃をムサシからそらした。
窓の外から虫の音が聞こえる。
時計の針が一刻一刻を刻む。
「なんであんな顔しやがるんだ」
「ん?」
ヒル魔は聞こえるか聞こえないかわからないような声を出した。
「俺になんざまともに笑いかけたこともねえ」
ムサシは泥門の悪魔と呼ばれるこの男が、この蛭魔妖一が、たった一人の女にこ こまで執着するとは今まで思ってもみなかった。
それほど、こんなにも。
少し微笑ましい。
「で、お前がそんなに怒っている本題はなんだ」
ゴトリと鈍い音をたて、機関銃が床に横たわった。
「……他の男とキスしてやがった」
ヒル魔は、力無く笑った。
「…姉崎さんが…?」
微笑ましいと思ったのが一転、何かで殴られたような気分になった。
ムサシの頭のなかにヒル魔の隣で嬉しそうに笑うまもりの顔が浮かんだ。
あれほどヒル魔を支え、彼を理解し、彼を愛している人が。
「そりゃ何かの…」
「ああ、間違いだ。あれは完全に向こうが悪い。あの女に非はねえ」
「だったらどうして」
『尻軽女』なんて。
「…警戒心なんざなんもねえんだよ、あの女!へらへら笑って、他の男欲情させ て」
ヒル魔の声が小さくなる。
「…襲われるなんて馬鹿みてえだ…」
泣いている、とムサシは思った。
本当は涙など出ていなかったかも知れない。
けれどこのときムサシは確かに、ヒル魔が泣いていると思った。
「…キスで済んだのか」
「あぁ。俺が行ったから、それ以上はなかった」
ヒル魔の金髪が月明かりで輝いて見えた。
その表情は読みとることは出来なかった。
「傷ついてんじゃねぇのか、彼女」
ムサシはポケットに手を入れた。
たばこは、もうない。
止めたのだと思い出すと、静かに息を吐いた。
「姉崎さんは、お前しか頼れねえんだ。彼女、今心底お前を必要としてるんじゃ ないのか」
無理矢理口づけられ、側に居て欲しい男に尻軽と言われ、彼女はどんな想いで居 るのだろう。
「お前が支えてやらなくてどうするんだ」
ダンッとヒル魔が壁を力一杯蹴った。
「…何になる。あいつに辛かったな、大丈夫かなんて寒々しい言葉ぶつけんのか !? それでどうなる。同情なんか押しつけられて、舞い上がった気分になるか ?!」
彼女同様、この男も傷ついている。
中学時代から彼を見ているムサシも、ヒル魔のこの様子には驚いた。
『同情』だと。
彼は『同情』だと言った。
少し違う気がムサシにはした。
同情でなく、ただ単にまもりはヒル魔を欲している。
そんなことわかりきっていることじゃないのか。
「…いつものお前はどうした」
「あぁ?!」
頭に血が上っている。
それだけだ。
「いつだってお前は『冷静』だった」
ヒル魔は頭のなかにムサシの声が直に入ってきたような気がした。
「『蛭魔妖一』を取り戻せ」
いつだってお前は『冷静』だった。
いつだってお前は。
「……『冷静』か」
ヒル魔は自嘲し、笑った。
「ふて寝してなきゃいいんだがな」
そう言ってヒル魔は携帯を取り出した。
「やっとわかったか、この野郎」
ムサシは立ち上がり、ドアに向かった。
「手放す気なんかねえんだろ」
ヒル魔はニヤリと笑った。
「ったりめーだ」
…手間のかかる奴だ。
ドアを開ければ心地よい風が入ってくる。
ヒル魔が携帯を耳に当てるのを見て外に出た。
手を離せば、閉まる空間。
ひとつ大きな延びをしてムサシは歩き始めた。