chapter.1 それは、とても脆く。
「黙ってんじゃねぇ!」
ヒル魔は右腕を壁に叩き付けた。
横の棚の上から、雑然と置かれていたデータファイルが音をたてて落ちた。
ヒル魔と壁に挟まれ、肩を震わせるまもりはヒル魔と視線を合わせないよう、下 を向いている。
「なんで何も言わねえ?!どうしてそうやって震えんだ」
口をつくのは疑問ばかりだ。
わからないことが多すぎる。
「どうして俺を見ない?!」
つい昨日まで、手を伸ばせば届く距離に居たのに。
「ごめん…なさい」
体と体は近くても。
モヤがかかったように、お前を掴みとることが出来ない。
「まも姐ちゃんはどうした」
残暑だというのにギラギラと照りつく空の下、日本酒をあおりながら溝六はヒル 魔に話しかけた。
いつだって時間より早くきてマネージャーの仕事をこなすまもりだけに、顔も見 せないとなれば誰であっても心配をするというものだ。
「俺が知るかよ」
ヒル魔は乱暴に言い捨てた。
『ごめん…なさい』
脳裏に先程の出来事がよぎる。
わけわかんねえ。
ため息をつきそうになり、思わず口を閉じた。
「…あの糞糞マネ」
ポツリと呟くと、ヒル魔はセナとモン太のほうへ向かって いく。
今度は溝六がため息をつく。
「…相当きてんな、ありゃ」
普段と何も変わらないはずの彼特有の雰囲気から、溝六はわずかな違和感を感じ た。
「俺が口を挟める話じゃねぇ、か」
もう一度酒を口に流し込む。
溝六はポリポリと頭をかき、ラインのほうへ目を移した。
一度は収まったはずの震えが、また襲ってくる。
あれからずっとこんな調子だ。
「…もう…なんで思い出すの…?」
まもりはベッドの上で体を小さく丸め、自身を抱きしめていた。
『お。いい腰…いや、泥門のマネージャーだよね、君。いやー久しぶり』
風に揺れていたドレッドの髪。
愛想良く緩んだ口元。
『怖い顔したキャプテンは居ないわけね』
逃げれば良かった。
嫌な予感は少なからずしていたのに。
止まらない震え。
消えない恐怖。
『ずっと気になってたんだよね、君のこと。……今日は邪魔者も居ないし逃がさ ねえから、な』
顔は笑ってたのに、目は笑っていなかった。
抵抗する間もなく奪われた手の自由。
ギリギリと手首が彼の両手に締め付けられた。
次に待っていたのは強引で乱暴なくちづけと、
『ちょっと手荒だけど我慢してくれよな』
無理矢理に犯された身体。
頬を涙が伝う。
あれから、『男』が恐くなった。
セナやモン太は大丈夫だ。
十文字や、黒木、戸叶、佐竹、山岡。
栗田でさえも近づくことが出来ない。
一番近づけないのは、
「ヒル魔…くん…」
彼に感じるのは恐さばかりではない。
罪悪感。
『なんで何も言わねえ?!どうしてそうやって震えんだ』
まもりは膝を抱えた。
『どうして俺を見ねえ?!』
途切れることなく涙が流れる。
「ヒル…魔く…」
本当は気づいて欲しいのかもしれない。
察して欲しいのかもしれない。
自分の口からは言えない、このことを。
大切な貴方に。
いっそ嫌いなら、嫌いと言ってくれればいい。
ヒル魔はそう、思った。
何も言ってくれないのは、ただイライラが募るだけだ。
ずっと目を合わそうとせず、喋ろうともしない。
今までそんなことなど一度もなかった。
「あんの糞糞糞マネッ」
力任せに椅子を蹴りあげた。
大きな音をたて、床を滑る。
蹴ったほうの足にジンジンという一時的な痛みが走った。
「お。荒れてんな」
部室のドアが開き、無精髭の男が顔を出す。
ムサシだ。
「何しに来やがった糞ジジイッ」
「あー、んながなるな。栗田にな、お前がおかしいって言われて見に来たんだよ 」
ムサシはヒル魔が倒した椅子を元のように立たせると、それに座った。
「…おかしいのはお前だけじゃねぇみてえだがな」
ムサシの言葉にヒル魔の体がピクリと動いた。
「昼間、姉崎に会った」
「…それがどうした」
ヒル魔はじっとムサシを見つめる。
「俺を見たら怯えるように走っていった。あの姉崎が何も言わずにそんなことす るか?」
ムサシの言葉にヒル魔は顔を険しくした。
「てめえだけじゃねえ。糞三兄弟や糞デブたちまで避けやがる。…俺もだが」
「やっぱりお前を変にするのは姉崎ぐらいだなぁ」
「…どういう意味だ」
ムサシは笑い、カウンターを見る。
「お前じゃねえが、姉崎に避けられるのはなんか、良い気しねぇな」
「…好きになったら承知しねぇぞ」
「お前がさせちゃくれねえだろ」
「ッ!!」
ヒル魔は大きく目を見開いた。
額から汗が流れる。
全身の体温が一気に引いた感じを覚えた。
「おい、ヒル魔…」
「…いつもてめえのサインはわかりにくいんだあの糞マネッ!」
ヒル魔は荷物を持つと、部室の扉を乱暴に開ける。
「お、おいっ」
「鍵かけとけ、糞ジジィッ!」
そう言うとヒル魔は走り出す。
「…なんかわかったのか…?」
ムサシは頬をかき、ヒル魔の背中をしばらく見ていた。
「『ごめんなさい』だけでわかるわけねぇだろうがっ」
ヒル魔は走りながら携帯を取り出した。
今から行く。窓開けとけ
それだけ打つと送信ボタンを押す。
送信完了の文字を確認するとポケットに入れた。
どうすりゃいい。
頭のなかにそればかりが浮かぶ。
信頼を感じていた身近な男たちでさえ、恐怖を感じている状態だというのに。
行ったところでなにをすればいい。
どんな言葉をかけてやりゃいい。
「甘ったるい言葉なんざ知らねえぞ」