何よりも君を

「……我ながら早まったモンだなァ」

7年ぶりの検事室の椅子に体をもたれて、夕神は呟いた。
無罪が確定したあの日、ずっと守り続けていた大切な人の娘に。
……手を出した。
右手で顔を覆う。
あの日に全てを自覚した。
彼女に対する自分の想いを。

「…………ココネ」

7年前のあの日、それからもっと前、そして今と、たくさんの心音が浮かんでは消える。
このままでいいはずがない。

「……畜生」

夕神は吐き捨てるように言って、重い瞼を閉じた。
あれから。
釈放されてからというもの、夕神は検事局の執務室で生活をしている。
行く宛がないのは確かだったし、かといって心音の家に厄介になることはできない。
もう二度と間違いは起こしたくない━━その一心だけだった。
無罪を言い渡され、仮釈放となったあの日、夕神は心音の勢いに乗せられて彼女の家に行った。
嫌な予感はしていた。
案の定それは的中した。
7年の歳月を経て、彼女と2人だけになり、そのまま夜を過ごしてしまった。
自分が守らなければいけない彼女を、自分のその手で犯して。

(距離が必要だ。ココネにも……俺にも)

椅子をギィッと言わせ、夕神は立ち上がった。

「ユガミ検事! そろそろ裁判所へお願いします!」

独特なスーツの上着に腕を通すと同時に、事務員が執務室の扉を開ける。

(……今は余計なことは考えてる場合じゃァねェな)

襟を正すと、相棒のギンが肩へと舞い降りる。

「さァ、行くとするか」

悪いな、ココネ、と心の中で謝罪した。

 

「今回も容赦なかったなあ、ユガミ検事」

王泥喜はいつものように眉間に指を当てて呟いた。
その隣で、誰もいなくなった検事席を心音が食い入るように見て頷いている。
今日法廷にいるのは、弁護のためではない。
裁判の経験が薄い心音の見地を広げるために傍聴しに来たのだ。

「……でも、何だかいつもと違うような……」

気がする。
あくまで気がする程度だけれど。
確かに隙のない攻めだった。
けれど、どうしてか夕神の言葉のひとつひとつから、小さな苛立ちを心音は感じていた。
苛立ちだけじゃない。
焦り。
戸惑い。
弁護人や被告人に向いているようには思えない。
押し隠したように微かな感情だ。

「……っ!」
「ちょっ!? 希月さん!?」

突然立ち上がって、傍聴席を飛び出していった心音に、王泥喜は呆気にとられた後、大きくため息をした。

「全く、すぐに足が動くんだから……」

頭を掻いて、腕を組んだ。

「……仕方ないか。あのユガミ検事、だもんなあ」

王泥喜は、そう諦めがちに呟いた。

 

「夕神さ……じゃない! ユガミ検事!」

裁判所を少し出たところで、見覚えのある背中に心音は走り寄った。
あの感情がなんなのかを知りたくて、耳を傾けたくて。
ただそれだけで、彼を追っていた。
肩に止まった彼の相棒が、大きく羽を震わせる。
その所作にたじろぎながらも、夕神の腕にすがった。

「あの……っ、さっきの法廷見ました! すごかったです! でも、なんか違和感があって、それで」
「……見たのか。俺の感情を」

矢継ぎ早に飛び出していた言葉が、夕神の低い声に沈黙する。
冷たい。
冷たい壁が目の前にある。
そう、心音は感じた。

「……少し……だけ」

自分で想像していたよりも、小さな声が口をついた。
夕神が無言で心音の腕を振り払った。
その目は彼女を見ていない。

「……月の字」

ビクリと体が揺れる。
恐る恐る夕神の顔を見上げる。
やはり、彼はこちらを向いていなかった。

「もう俺に執着するんじゃねェ」
「えっ……?」

頭を殴られたような感覚。
心臓だけがバクバク鳴って、雑音が全てシャットアウトする。

「……近づくなって言ってんだ」
「……っ!」

今日初めて交わされたその視線は、まるで刺すように心音を見据えている。
言葉に怒気を込められているのが心を見るまでもなくわかる。

「どう……して……」

急に。
そう言いたかったが、喉の奥に消えた。
やっと再会したのに。
想いが通じ合ったと思ったのに。
どうしてまた壁を感じるのだろう。

「……もう……十分だ」

“哀しい”。
夕神の表情とは逆に、激しい感情が流れ込んでくる。
“焦り”、“苛立ち”、“憤り”。
渦になって心音に押し寄せた。
これが何を意味しているのか、考えれば考えるほどわからなくなる。
……違う。
考えられないほどの勢いで溢れ出している。

「そんなこと……言わないで……っ」

“哀しい”。
発端にあるはずの想い。
自分の中にある感情に紛れて掴めない。
夕神の心の声に耳を傾けようとしても混乱するばかりだ。

「近くにいちゃだめなの? ……声をかけたらだめなの?」

ああ、もしかして、これは。

━━━━拒絶。

「いやっ、いやあっ!」
「月の字!?」

心音が体勢を崩しそうになり、夕神は腕で彼女を支えた。
目を見開き、頭を抱えて震える様。
何度も法廷で目にした。
彼女がトラウマを思い出したときに起きる症状だ。
やっと落ち着いた心音のトリガーを再び引いてしまった。
それが夕神にはわかった。

「くそっ」

そんなおめえさんが見たいわけじゃねェ。
そんな顔をさせたいわけじゃねェ。
どうしてわからない。
どうして……。

「…………どうして俺ァ、おめえさんにこうも甘いんだろうなァ」

気づけば夕神は、自分の腕の中に心音を抱いていた。
行き場を無くしたジンが羽をはためかせて、2人を見守っている。
柔らかな頬に自分の頬をすり寄せ、そのぬくもりを確認する。

「距離を置こうと思っていた」

心音の体が反応した。

「前にも言ったがなァ、おめえさんはまだ若い。これから先、いろんな出会いがある。そんなおめえさんを俺は、守りたいのさァ」

師匠の娘。
もう、それだけではない。
大事な人に関係は変わっている。

「なのに、てめえで傷つけちゃァ世話ねェよなァ」

くっくっ、と夕神は自嘲気味に笑った。

「……怖いんだよ。俺ァ。おめえさんにこれ以上のめり込んじまうのがなァ。守るどころか壊すんじゃねェかってな」
「ゆう……がみ、さん」

心音の目から、大粒の涙が溢れた。

「覚悟したはずなのに、やっぱり辛ェもんだなァ。泣かれるってのは」
「いや……ですっ、もういなくならないで……っ! 夕神さんがいなくなったらわたし、わたし……っ」

彼女の背に回す腕に力を込める。
そうだ。こいつも。
自分と同じように。

「…………ココネ」

存在を欲している。
離れられるわけなど……ない。
風が、2人の髪を頬を穏やかに撫でる。

「俺ァ、おめえさんの傍にいていいのか?」

腕を緩めて、涙に濡れた心音を見る。
少しかがんで、様子を伺う。と。

「あったりまえじゃないですかっ!」
「うおっ!?」

首もとに飛びつかれ、バランスを崩しかけたのを夕神はあわやというところで持ち直した。
声を上げて泣く心音の頭をポンポンッと軽く叩く。

「……すまねェなァ」

そう言った夕神の顔には笑みが浮かんでいた。

 

「……ったく、希月さんってば、オレのことすっかり忘れてるよなあ」

向かいの建物の影で、王泥喜が毒づいていたのを、2人は知らない。