呼べない名

「嫌だ。どうしてだネフリー」

離すものか。
離すなんてことできるか。
ピオニーは折れそうな彼女を強く抱きしめた。
離してしまったら、文字通り手が届かなくなる。

「行くなよ。他の男のところになんて行くんじゃない」
「無理です。 貴方もわかっているでしょう?」

彼女の言葉は冷たかった。
しかし、彼女の声音は震えていた。

「嫌だ。行くなよ。俺の傍に居て欲しい」

どうして離れなければならないのだろう。
彼女の傍から。こんなに愛している彼女から。
頭のどこかではわかっていた。
自分はこの国を治める王で、彼女はただの一般市民に過ぎないのだということ。
身分が、違いすぎる。
そしてネフリーは別の男と結婚を決めた。
その彼女の決断は、ピオニーにとっては早すぎるものだった。
彼女を、ネフリーをまだ忘れることができないのに。
まだ愛しているというのに。

「陛下。…もうやめてください…」
「……呼んでくれ、俺の名前を」

ネフリーは彼の腕の中で首を振る。
もう呼ぶことはできませんと、小さく聞こえた。
震える彼女の顎に手を添え、口づけた。
カシャリと、彼女のメガネが音を立てる。

「ふっ…う…ん…っ」

角度を変えて、むさぼるように。
いつしか頬に涙が触れた。
それはどちらのものかもわからない。
床に彼女を押し倒し、ついばむように何度も何度もキスをして。

虚しさだけが心を占める。
明日からはきっとこんな風に逢うことはない。
もう一度ピオニーはきつく彼女を抱きしめた。

「愛してた。本当に愛していたんだネフリー」

外降る雨は、窓を激しく叩きつけて。