「……お、終わった……」
三時間に渡るぶっ通しの台本読み合わせが終わり、鹿島は部室に大の字に寝転んだ。
いつものように、いやいつも以上の人だかりをかき分けて鹿島を連れ出し、サボっていた時間を埋めるかのように、演劇部部長の堀による、繰り返しの台本読み合わせが始まったのは、まだ夕暮れ時だった。
『秋の日は釣瓶落とし』とはよく言ったもので、もう日は落ち、辺りはすっかり暗くなっている。
今日は鹿島の17回目の誕生日だ。
いつも以上に多くの女子生徒が鹿島を囲んでいたのはそれが原因だ。
「まあ、今日はこの辺で勘弁してやる」
「この辺って……もっと何かさせるつもりだったんですか!?」
勢い良く立ち上がった鹿島の問いには答えずに、堀は帰り支度を始めた。
その姿に少し胸が痛む。
少しだけ自惚れていた。
彼なら、自分の誕生日を把握していて、いやそうでなくとも先ほどの騒ぎで察してくれて、おめでとうとか、そんな一言をかけてくれるんじゃないかと、そう思っていたから。
「……堀ちゃん先輩」
スカートの裾を握って、彼の名を呼んだ。
短い髪が、顔を上げて鹿島を見上げた瞬間、開けた窓から入った風にふわっと揺れる。
小さく深呼吸をする。
「どうした、かし……」
堀の声に重なって。
「私と、キスして下さい!!!!」
鹿島の言葉が部室にグワンと反響した。
鞄を肩に担いだ堀の手がそこでピタリと止まる。
目を大きく見開いて鹿島を注視した。
一呼吸置いて堀が口を開く。
「……キスって」
彼から『キス』という単語が出た瞬間、鹿島の内側から熱が体中に溢れ出た。
「うわっ、えっと、その、やっぱし、撤回!」
気恥ずかしさが勝って両手を前にブンブンと振って拒否をする。
しかし、堀はズンズンと鹿島の傍に近づいてくる。
……酷く不機嫌そうな顔で。
(うわーっ、完全にやっちゃったよ……)
思わず目を瞑った瞬間、堀が器用に鹿島のネクタイを掴んだ。
そしてグンッと体を彼へと近づけられる。
「おい、鹿島」
「は、はい……」
間違いない、この声音は完全に怒っている。
鹿島は自分の先の行動に後悔し始めていた。
いつも堀のことを好きだ、好きだと宣言はしていたけれど、いきなりキスはやっぱりドン引きだったよなあ、などという考えが浮かんでは消えた。
「なんで、キスしろなんて言った」
「ごめんなさい、軽率でした。可愛い服をプレゼントしたりお姫様抱っこするので許してください」
「……てめえ、ケンカ売ってんのか。……じゃなくて、お前から勝手に振った話を勝手に拒絶すんじゃねーよ」
恐る恐る目を開ける。
普段なら自分より低い位置にあるはずの堀の顔が想像以上に近い場所にあった。
気がついたら、心臓が五月蝿く脈打っていた。
この静けさで、堀に届いてしまうんじゃないかと言うほどに。
「……ょ……び……から……」
「あ?」
「誕生日だから!! 先輩にキスして欲しかったんです!!」
一思いに言い放つと、堀はしばらく鹿島を見つめた後、我慢できないとばかりに笑い出した。
「い……、今の笑うところですか。一応、思い切って言ったんですけど」
「いや……くくっ、悪い。可愛いな、と思ってよ」
ドキンッと。胸が跳ねた。
堀の言葉がぐるぐると脳内で回り出す。
ひとしきり笑った後、堀はそれまでと打って変わったように真面目な顔で鹿島を見た。
「なあ、鹿島。もし俺がお前にキスしたらそのまま止まんねえと思うけどいいか」
「えっ……?」
「だから……ッ! ックソ。ガラじゃねえなあ、こういうの」
「うっ、わ……!」
ネクタイの下から結び目に人差し指をひっかけて、更に鹿島を引き寄せる。
「…………キスだけじゃ、終わんねぇってことだよ。王子様」
小さな呼吸がひとつ聞こえた。
「んんっ……!」
唇に柔らかな感触。
それが、堀からの口づけだとわかるのにどうしてか時間がかかった。
まぶたを瞬かせると、堀の顔がぼんやりと揺れた。
「っ、ん……っ!」
気づけば息を止めていて。
気づけば頬が真っ赤で。
気づけば他に何も考えられなくなって。
「鹿島……っ、息くらいしろ」
唇を離した後の掠れた声に一層ドキドキして。
「せん、ぱ……」
声を上げたらその瞬間を狙ったかのように再びキスをされる。
思わず後ろに下がったら、背中が棚にぶつかった。
バサバサと、昔演じた台本の束が溢れた。
けれど、構うことはしなかった。
堀が鹿島の腰に手を伸ばして自分に寄せた。
少し大きな音を立てて堀の鞄が床に落ちた。
けれど、構うことはしなかった。
堀の舌が、鹿島の舌に絡む。
どうしていいかわからなくて、そのまま彼の動きを真似た。
だんだん力が入らなくなり、棚を背にして少しずつ座り込む。
鹿島を支えるようにして、堀もそれに合わせた。
ガタンッ、と音がする。
堀の腕が鹿島の後ろの棚に押し付けられた。
乾ききった喉を潤すように、堀の舌は鹿島を味わうことを止めなかった。
(気持ち……良い……)
ぼうっとした頭でそう思う。
初めてしたキスは、舞台でのラブロマンスより人間くさく、少女漫画より濃厚だ。
「っは、鹿島……ッ!」
唇を離し、堀が鹿島の肩に顔を埋めて抱きしめた。
腰を支えていたその腕に力が込められる。
「堀……先輩……」
大好きな先輩が、自分を抱きしめてくれた。
熱のこもった声で呼んでくれた。
キスをしてくれた。
「……なあ、鹿島」
堀は顔を上げて、鹿島の額に自分の額をくっつける。
少し左右に擦って止めた。
「お前さ、どれだけ俺がお前を見てるかわかってるか?」
「そ、そりゃあ、もう。バシバシ感じてますよ、私を見る堀先輩の熱い視線」
いつもは簡単に言えるはずの言葉。
今はどうしてこんなに緊張するんだろう。
「……じゃあさ」
堀の顔が近づいたと思うと、ぷちゅっ、と可愛らしい音を立てて、彼の唇が鹿島のそれに触れた。
「『女』として意識してるってこともわかってたか?」
女、として。
……もしこの言葉の意味が、自分の知る意味であれば。
これが自惚れじゃなくて、変な先入観なしでそういう意味であれば。
「……今日はここまでだ。……なんとか、自制できた」
立ち上がろうとする堀の腕を引っ張る。
バランスを崩した堀がそのまま鹿島に覆いかぶさるように倒れこんだ。
わら半紙が宙を舞う。
ガンッと一発、棚にぶつかった音がしたが気にしない。
「~~っっ! 鹿島ァ!」
「……自制しないでください」
痛みに声を荒げる堀に、鹿島が口を開いた。
呆気にとられたように堀がこちらを見る。
「そのままっ、自制、しないでください」
「……鹿島、意味わかって言ってんのか」
「…………も、もちろん」
堀の表情を見たくなくて、一生懸命あさっての方向を見る。
これでも演劇部の出来のいい後輩である自覚があるのに、凛々しく述べることができない。
「…………お前なあ」
鼻で笑われたような声がして、すぐに頬にキスが降ってきた。
「……覚悟しろよ」