貴方のしるし

「……堂上……教官」

電話の向こうにいる相手の名前を呼ぶ。
想像してたより、自分の声は震えていて、こんなにも余裕がないんだ、なんて頭の隅で矛盾したように考える。

『郁? どうした、こんな時間に』

寝入っている柴崎に聞こえないように、声量を絞る。
それが返って更に言の音が不安定になった。

「……会って……くれませんか?」

今度は涙が混じった。
郁は、己の体を自ら抱き、堂上の言葉を待った。
壊れてしまいそうだ、このままでは。

『すぐに行く。自販機の前まで来れるか?』

それが、この時間に唯一2人が会うことができる場所だ。

「……はい」

いい子だ、とそう言って、堂上は電話を切った。
重い体を起こして、涙に濡れた顔を手で擦る。
……夢を見た。
あのときの夢だ。
初めて人を撃ち、玄田隊長を守ることができず。
殺すつもりで行動に出た自分への恐怖と、何もすることができなかった悔しさが、録画映像のように、何度も何度も夢の中で繰り返し再生される。
茨城での出来事から、もうどれくらい経っただろう。
なのになぜ、なんて自分は弱い人間なんだろう。
柴崎を起こさないように注意しながら、部屋を出た。
非常灯しかついていない寮の廊下は、静けさに溢れている。
それが郁には、重すぎてたまらなかった。
何十回見ただろうその夢は、忘れた頃に訪れる。
失ってはいけない記憶だというかのように。
図書隊に入らなければ、防衛部に志願しなければきっと、起こりえなかった感情。
ここにいるのなら、乗り越えなければいけない壁。
これは試練だ。

「……酷い顔をしているな」

声をかけられてハッとした。
気づけば、堂上が来いといった、共同スペースにたどり着いていた。

(そんな感覚もないなんて……)

夢に狼狽している自分に改めて気づき、じんわりと視界が緩む。
自販機に体を預けて郁を待っていた堂上は、組んでいた腕をほどいて彼女の頬にそっと触れる。
親指で涙を拭われると、堰を切ったように渦巻いていた思いが溢れ出した。

「教官……ッ」
「お、おい……!」

思わず郁は、堂上に抱きついていた。
首もとに腕を回し、彼の肩に顔を突っ伏して。
流れ出る大粒の涙が、堂上の黒いTシャツに吸い込まれていく。
それでも、子どものようだと思われたくなくて、声を押し殺した。

「……どうした」

耳元に聞こえる優しい声に、体が震える。
背中に回された暖かい手のひらに、心が癒されていく。
後ろ髪を愛しそうに弄ぶその指に、全てを委ねてしまいそうになる。
あんなに苦しくて、押しつぶされかけている自分を。

「郁……」

上官としてじゃない、恋人として向けられる呼び名。
この人に必要とされているのだと、思うことが出来る。
そう思えるだけで、気持ちが軽くなる。
すごく、すごく不思議だ。

「夢を……、見たんです」
「夢?」

落ち着けるように撫でるその手を止めることなく、堂上が問うた。
こくり、と郁は頷く。

「すっごく大きな恐怖と、罪悪感に押しつぶされそうになる夢です」

あのときのだと。
茨城でのことだと、言いたくはなかった。
一度、大丈夫かと堂上に気遣われたときがあった。
けれど、ごまかした。
そのときも同じ夢にへこたれそうになっていたが。
成長したな、そう言われてますます押し隠したくなった。
弱い自分を。
恐怖と悔しさにまみれた感情を。
こうしている今でさえも。
こんなに惨めな自分を晒しておきながら。
━━━━隠したいのだ、本当のことを。

「相当のアホウだな、お前は」

堂上の腕に力が入り、2人の距離は更に近づいた。
突然のことに驚いて、郁は顔を上げた。

「……何も言わなくていい。だが忘れるな。いつだって俺がいる」
「……ッ!」

わかっている、そうとも取れた。
しかし、堂上は確かめなかった。
郁の意地を、強がりを、知っていながら奥まで踏み込まない。
それが郁にはひどく嬉しかった。

「うっ、ううっ……!」
「お前がまたつぶれそうになったら、今日のように俺を呼べ。安心しろ、どこにいたって駆けつけてやる」

再び、堂上の肩に顔を伏せた。
ああ、どうしてこの人は、あたしの欲しいと思っている言葉をくれるんだろう。
触れられたくない部分には手を伸ばさずに、丸ごと抱きしめてくれるんだろう。

「郁」

名前を呼ばれ、顔を上げる。
大きな手が、郁の首筋に回って。

「━━━……!」

ちゅっ、という音と共に、堂上の唇が郁のそれに押し付けられた。
長い接触のあと、2度3度と慰めるように口づけられる。
少しアルコールのにおいがして、そのせいだけではないと頭では理解しているが、……クラクラした。
自販機に背が当たって、ガシャンと音がする。
身を竦めたが、深夜2時のこの時間に目を覚ます者もそういないだろう。

「……お守り、いるか?」
「えっ……?」

“お守り”と言った堂上の言葉の意図がわからず、郁は聞き返した。
堂上は微かに笑みを浮かべると、郁の来ているTシャツの襟首を少し下にずらす。

「なっ……!?」

ピリッ、と。
小さな電流が流れたように思えた。
堂上が離れ、自販機の明かりが妖婉さを纏って、郁の胸元を照らした。

「これ!?」

キスマーク、というやつだ。
そう思い当たるのに少し時間がかかった。
みるみる頬が熱くなるのがわかる。

「俺がいる、というしるしだ」

と、言った瞬間は真面目だったのだが、郁の反応を見て堂上も赤くなる。

「とっ、とにかく! 今日はもう寝ろ! 明日に響く!」

恥ずかしさから急に口調が上官のそれになり、堂上は郁から勢いよく離れた。
そして、ぽんぽんっと頭を撫でる。

「戻れるな?」
「は、はいっ! おやすみなさいっ!」

真っ赤な顔で郁は何度も頷いた。
その流れで一礼すると、堂上はぷっと吹き出し。

「ああ、おやすみ」

また、優しい笑顔を郁へと向けた。

 

(びびっ、びっくりしたぁ〜!)

部屋に戻り、ベッドに突っ伏しても郁のドキドキは収まらなかった。
襟首から自分の体を覗いて、また赤くなる。
恥ずかしくて堪らないが、これを眺めるだけで心が軽くなれるように思える。
あの夢は、これからもきっと見るだろう。
郁が郁である限り、ずっと。
それは嫌でも、決して忘れてはいけない思いで、感情で、出来事で。

(乗り越えられる……きっと)

胸元に手をあてる。
そこにあるのは、堂上がここにいる、という“しるし”だ。
目を閉じると、それまで寝付けなかったことが嘘のように、郁は深い眠りへと落ちていった。