君とするキスの温度

 雲海ではない、青く澄んだ海が遠くに延々と続いている。今夜は快晴、同じく青みを帯びた空を星々が瞬き、水面に反射していた。
 白で覆われた世界も美しかったが、これはこれで美しいと思える。
 これらを眺めながらジークは薄い毛布の中で少し身動いだ。座る際に背もたれにした木の皮がささくれ立つのをかすかに感じる。厚手のコートだから貫通する事は無いだろうが、それでも少し居心地が悪い。
 ぱちっと焚き木がひとつ爆ぜた。袂に転がった枝を火の中に投げ入れてやる。積み上がった木々が衝撃で小さく崩れた。

「……んっ……亀……ちゃん?」

 名前を呼ばれて顔を上げると、焚き火を挟んだ向かいで眠っていた筈のニアが体を起こして目をこすっていた。

「すまん、起こしてもうたみたいやな」
「ふあ……っ、気にしないでよ。見張り、変わろうか?」

 ニアは大きく欠伸をすると、布団代わりにしていたビャッコを、そして傍らに眠るサイカを起こさないようにして、ジークの隣へと歩み寄り、同じように木を背にして座り込んだ。

「自分一人で見張りさせられるワケないやろ。男に見栄ぐらい張らせてくれや」
「自分で『見栄を張る』とか言ったら台無しだぞ。……へ、へくちゅッ」

 ニアはクシャミをして、ずっと鼻をすすり上げる。雲海とは違い、水を湛えた本当の海は夜になると冷たい風を連れてくる。

「ニア、寒いやろ」

 体に巻いた毛布を脱いで渡そうとすると、ニアは大きく首を振った。

「いいよ。亀ちゃんの方が寒そうだし」

 彼女の言うことは最もだ。上半身裸の上、前開きのコート。それでも、自分の体を抱いて摩り上げる彼女を横目で見ているのは忍びない。

「しゃーないな。……ニア」
「へ? うわわッ、モゴゴ……ッ」
「シーッ。静かにせんかい」

 ジークはニアを抱き上げると自分の足の間に座らせて、自分ごと彼女を毛布で抱え込んだ。声を上げそうになった(半分上げていたが)ニアの口を抑え、眠るブレイド達の様子を伺う。
 ビャッコの耳が微かに動いたように感じたが、すぐに彼の体が穏やかに上下し始めたのを見てジークは胸を撫で下ろした。

「なっ、これっ、どっ!?」

 『何これ、どういうこと!?』と言いたいのだろう。ジークが手を離した瞬間、頬を真っ赤にさせてニアが口をパクパクさせた。少しでも顔を傾ければ鼻先同士が、唇が届いてしまいそうな距離。
 彼女が自分を意識しているのが見て取れて、ジークは思わず頬を緩ませた。

「これでワイもニアも寒うなくてええやろ」
「よ、よ、良くないってば! っていうか、腰! 手!」
「こうしてくっついた方が熱を維持できるやろ。……ニア、自分意外と温かいやんけ」

 毛布が落ちないように掴む傍ら、腰も抱く手に力を込めると、服越しにニアの体とジークの体が接触する。ニアは一層真っ赤になって、抗議の声を上げた。

「もっとくっついてどうすんだよ! 亀ちゃんのバカバカッ! 変態! スケベ!」
「随分な言い様やな。ワイが変態でスケベなんはニアが可愛いからやって、もうわかっとるやろ?」
「そんなことわっかんないってば! もう……」

 利き手でニアの頭を撫でると、彼女の耳が何かに弾かれたようにピンっと立ち上がった。こういう時のニアは心地良さを感じているのだと、最近ようやくわかった。

「騒ぎすぎるとサイカとビャッコが起きるで」
「う~」

 ようやく観念したのか、ニアはジークの肩に顔を埋める。彼女の熱が、触れた頬から頬へと伝わってくる。自分の熱も彼女に伝わっているだろうか。

「……ニア、寒くないか?」
「……温かいよ。温か過ぎておかしくなりそうだよ」

 耳元で投げやりに告げられた言葉には、彼女の『恥ずかしい』という感情が滲んでいる。その物言いが微笑ましくて、ジークはもう少し意地の悪いことをしてみたい気持ちになった。

「ワイはまだちぃっと寒いで」
「へっ? 何いってんだよ、さっき温かいって……」

 行く場を失って自分の胸に置かれていた彼女の手を握り、そのまま自分の頬に触れさせる。

「ニアにチューでもしてもろたら、体ン中から熱うなるやろうけどな」
「へっ!?」

 彼女の手のひらにチュッと音を立てて口づける。本気でそうして欲しいとは思っていない。否定されるのが常だ。ジークはニアをこうしてからかうのが好きだ。自分の為にドキドキして、一生懸命どうしようか考えてくれる姿がとても愛おしく感じるからだった。

「い……いい、よ……」

 ……空耳かと思った。驚いて彼女の肩を抱き、体を離す。ニアは自身なさそうに、それでも真っ直ぐジークを見上げている。ジークに捕らわれていない手を胸の前でぎゅっと握って。

「ホンマか。ホンマにええんか?」

 思わず聞き返すと、ニアは照れくさそうに視線をそらす。

「い、いいって、言ってるでしょ! ほっ、ほら、何ぼうっとしてるのさ! 目……つぶってくれないと、はっ、恥ずかしくて……できないよ」

 最後は消え入りそうな声でニアは言い、もう一度少し不安そうにジークを見つめた。心臓が大きく高鳴った。ドキドキさせる筈がこちらがドキドキさせられている。

「お、おう……。そら悪かったな」

 そう言ってジークは目を閉じた。自分の鼓動が耳障りなほど頭に響く。ニアの吐息を近くに感じる。彼女の手を腰を掴む手に、また少し力が入る。自分から今すぐ抱きしめて口づけたい気持ちを何とか押し込める。

――――ちゅっ。

 鼻先を柔らかい感触が掠めた。うっすら瞼を開くと、これが精一杯というように泣き出しそうな顔をしたニアと目が合った。その可愛らしく、どこか物足りない筈の口づけはジークの心を一瞬で満たしていった。
 気がつけば、押し込めていた気持ちは制御できなくなっていた。彼女の手は離したが、すぐにその体を強く抱き締める。

「か、亀ちゃん……?」

 『ダメだった?』と、言わずとも力無げな声が告げている。ジークは膝立ちしたニアの胸元に顔を埋めながら首を振った。

「めちゃくちゃ温かいで。……わかるやろ?」

 顔を上げれば、頬に恐る恐る触れられる。首筋をくすぐったく感じるほどの力で撫でられて、微かに身震いした。自分よりも小さなその手も温かい。
 海風が音を立てて二人の間を吹き抜ける。風で靡いた彼女の髪を指で絡め取る。指先に感じる彼女の肌はまた少し冷たくなった。

「こら、もう一度温かくせんとアカンな」
「も、もう一度って……」
「次はワイの番や」

 親指で彼女の唇をなぞって、そっと口づける。唇と唇が触れ合う前に、彼女の息を吸う音が聞こえた。重ねるだけのキス。それでもこんなに胸が熱くなる。離れて、また啄んで。お互いの吐息が更に感情を高ぶらせる。
 何度かそうした後、どちらともなく額同士を擦り合わせた。上がった息を整えながら、瞼を開く。近すぎてぼやけた視界に、篝火の灯りにちらちらと照らされる彼女の頬が映る。

「……亀ちゃん」
「……ん?」

 浅い呼吸の隙間に、ニアが自分を呼ぶ。

「ぎゅってして?」
「ん……」

 彼女の背に腕をまわして力を込める。乱れかかった毛布を直して、自分の肩に顔を埋めるつもりのニアの唇に最後にもう一度軽くキスをする。

「……もう、毛布要らないね」

 それも照れ隠しだと知っている。

「まだ要るやろ。少なくともワイはニアのくれた熱、大事にとっときたいからな」
「……亀ちゃんって本当……」
「ニアのことが好き、やろ?」

 彼女が言葉に重ねた。一瞬言い淀んだその顔が見られないのは残念だったが、頬から伝わる熱さで何となくわかる。

「…………バカ」

 海の向こうに日が昇るのはまだだいぶ先だ。彼女が微睡むまで、寝息を立てるまでの間くらい、こうしていてもきっと罰は当たらないだろう。
 そう思いながら二人して意識が落ち、翌日お互いのブレイド達にからかわれるのはまた、別のお話――。