すれ違い - 4/4

「……っ、笠原!!」
本部の扉を勢い良く開いたかと思うと、顔に汗をにじませた堂上が立っていた。
緊急事以外、廊下は走るなと口を酸っぱくして言っていた彼が全速力でやってきたのは誰の目で見ても明白だった。
「今日は帰らせたよ。疲れていたようだったからね」
郁を探すその目を見て、机に寄りかかっていた小牧が答えた。
手塚は目を泳がせて、結局下を向く。
堂上はそうか、と落ち着かない様子で椅子に腰掛けた。
けれどすぐに立ち上がる。
「どこへ行く気?」
「女子寮だ。あいつの顔を見たい」
「やめときなよ。今は休ませてあげるべきだ」
「しかし!」
「堂上」
小牧は制するように名前を呼んだ。
落ち着け、という意味も込められている。
「……柴崎さんが彼女を看てる」
気にする必要は無い、とまでは言えなかった。
それは嘘になるからだ。
「男は現行犯で警察に連れてってもらったよ。上への報告書も提出済みだ」
「……そうか」
再び椅子に身を下ろした。
落ち着かない様子で手を組んだ堂上を一瞥すると、小牧は身を起こした。
「……小牧」
「なんだい」
堂上が小牧に体を向けた。
「お前は、俺にあいつのケアをしてやれ、と言ったな。何故今はそれを拒むような物言いをする」
小牧はしばしの沈黙の後、堂上の肩を叩いた。
「今がその時期じゃないからさ」
我ながら苦しいな、と小牧は思った。
けれどこれ以上はもう何も言えなかった。
ここを超えれば正論でなくなる。
「手塚、巡回の時間だ」
「は、はい」
呼ばれた手塚が立ち上がる。
小牧が外に出たのを見て、堂上に振り返った。
「堂上二正」
「なんだ?」
その目はまっすぐ堂上を見ていた。
「……あのとき、どこにおられたのですか? 自分はてっきり巡回中でももしものときはこちらに来るのではと思っていたので」
意外でした、と手塚は続けた。
「手塚ー?」
「はい!」
小牧に呼ばれ、手塚は答えを聞くことなく一礼して本部を出た。
扉の音と共に訪れた静寂は、堂上にとって、とてつもなく重いものだった。
「……郁」
数時間前の会議室でのことを思い出す。
抱きしめてやりたい。
けれどその資格が今の自分にあるだろうか。
小牧と手塚の言葉が、頭の中で繰り返し再生された。

「……とんだ事態になったものだわね」
ようやく寝付いた郁を眺めて、柴崎はこぼした。
郁のことはもちろん、堂上のことも業務部のツテで情報を得た。
(形勢は圧倒的に不利よ、堂上教官)
相手は、お嬢様風の美人。
郁とは正反対のタイプだ。
話していた内容からして、相当旧知の仲と想像できたらしい。
そして極めつけは。
(出会い頭に抱きつくなんて、友達止まりの男女ではあり得ないわよね、普通)
堂上についての情報と、痴漢現場の位置と時間を結べば間違いないだろう。
それに気を取られて、相手の行為を許してしまった。
普段の郁ならそうなる前に押さえ込んでいただろう。
そんな、惨いことを。
「ごめんね」
真っ赤に腫れた瞼を指でなぞって、呟いた。
あなたも女の子なのに。
自分が変わってあげることだって出来たはずなのに。
そんなこと言ったら、あなたは逆に私を守ろうとするわね。
柴崎は立ち上がり、そっと部屋の電気を落とした。

「あの人に会ったんだね、堂上」
「あの人?」
小牧の言葉に、手塚が繰り返す。
「……ああ」
ビール缶片手に、堂上が答えた。
小牧が手塚と共に堂上の部屋に詰めかけたのは理由がある。
1つは堂上が会ったという女性の話を聞くこと。
そしてもう1つは、郁と顔を合わせたがっているだろう堂上の牽制だ。
触れられたくない話題だと、不機嫌な顔が伝えている。
「なんだか熱烈な再会だったみたいだけど」
意図してトゲのある言い方にした。
ぶほっと、堂上がむせた。
━━━━やましいことという自覚はあるのか。
なかったらなかったで問題だけど、と小牧は心の中で毒づいた。
「堂上二正?」
話についていけない手塚が堂上の顔を見やる。
何度か咳き込んで口を開いた。
「昔馴染みだ」
「それはもう聞いたよ、どういった馴染みなの?」
逃げる隙は与えない。
「その……」
言い淀んだ後、観念したようにため息をつく。
「……図書大学校時代に助けた」
「助けた?」
「本屋でちょうど検閲にあって、彼女が良化隊に歯向かって殴られそうになったところを助けた」
はぁー……と小牧が大きな息を吐いて、体を反らした。
「何回そのシチュエーションで女の子助けてんの、王子様」
「うるさい、ほっとけ」
以前の堂上がそうだったように、そのときの彼も曲がったことは嫌いですぐに行動にうつす直情型タイプだったのだろう。
反射的に、王子様のように。
「で? その子がどうして今更」
図書大学校からの出会いとしたら、もう10年近く前になる。
「……告白された。ずっと俺を捜していたようだ」
「なっ……!」
手塚の顔がかっと赤くなった。
少し前には、違う人間を知りたいと理由で郁に付き合ってくれ、と言ったくせに、どうしてこう初々しいのだろう。
「罪作りだねえ、堂上も」
半分からかいで、半分憤りも込めて小牧は言った。
郁があんなに不安定な中、堂上にそんなことが起きていたなんて。
彼のせいではないにせよ、タイミングが悪すぎだ。
責任の一端は小牧自身にもある。
堂上に会いたいと言った女性を通せと業務部に伝えたのは自分だ。
「答えは当然……」
「断ったに決まっているだろう、アホウが!」
ドンっと、堂上は右手をテーブルに打ち付けた。
きっと堂上自身も薄々気づいている。
郁がどんな状態で、そんなときに自分が何をしていたかを。
「言え、小牧! 郁は何をされた!? 何が起きた!? あのとき、郁は━━」
「堂上二正!」
小牧に掴み掛かった堂上を手塚が引き離す。
ここまでか、と小牧はひとつ息を吐いた。
「……笠原さんらしくないと思っていたんだ。相手との間合いを取ろうとした瞬間、何かに気がそがれて」
出来れば言いたくない。
郁にとっては死んでも隠し通したい情報だろう。
小牧の表情で察して、手塚が続けた。
「油断した際に、ストッキングを破られたそうです。そしてそのまま指で……その」
明言を避けたが、そういうことなのだろう。
堂上は手塚の腕を振りほどいた。
「様子がおかしいとわかった瞬間に飛び出して男を抑えましたが、笠原は……」
「もう、酷い状態。腰は抜けてるし震えてるしで。だけど堂上には連絡するなと念を押されたよ。心配をかけたくないって」
「っ……!」
唇を噛んだ。強く握った拳が震えている。
「……そうか」
そう言って、堂上は立ち上がった。
「堂上!」
「……風に当たってくるだけだ」
小牧の声に答えた堂上の表情は、わからなかった。

いつか、キスをせがんだ郁に口づけた場所。
そこに堂上は立っていた。
寮から死角で、あまり人の来ないところだ。
コンクリートに腰掛け、空を仰いだ。
チラチラと瞬く星を見て自分を落ち着かせようとした。
約束を果たせなかった。
終わったら泣いていいと。
傷ついたであろうその心が満足するまで強く抱こうと思っていた。
巡回中にわざわざあの場所に行ったのは、何かあったら駆けつけようとしたからだ。
少しでも。
少しでも時間がずれていたなら。
過ぎたことを悔やむのは好きではない。
けれど、郁は間違いなく。
「気がそれたのは……俺が原因か」
突然の再会。
感極まった相手を抱きとめた。
ここでは話が出来ないと、図書館を出た。
その間に郁は。
「くそっ!」
悪いのは相手ではない。自分だ。
自分の行動が招いた結果だ。
━━━━今がその時期じゃないからさ。
小牧の言葉が頭をよぎる。
ああ、正論だよ。
今、俺が顔を合わせるべきじゃない。
余計に郁が傷つくだけだ。
なのに今すぐ、抱きしめたい。
強く強く抱きしめて。
他の男のことなんて忘れるほど愛して、愛して。
そう、したかった。
寮の明かりがポツポツと消え始めても、堂上はその場を動こうとはしなかった。

「笠原士長! 無事復活いたしましたー!」
昨日までのことが嘘のように朗らかな声が本部に響き渡った。
ニコニコと満面の笑みを浮かべた笠原にぽかんとした顔で声をかけたのは手塚だ。
「お前、本当に大丈夫か? 昨日の今日だぞ?」
「なになに? 手塚。心配してくれてんの? だーいじょうぶだって! 元気だけが取り柄だから、あたし!」
ケラケラと笑い声すらあげて、手塚の背をばしばしと叩く。
そしてすぐに小牧の元へと走り寄って敬礼する。
「小牧教官! 昨日はお騒がせしました! もうバッチシですのでよろしくお願いします」
「本当にもういいの? 今日休んでもよかったのに」
「いいです、いいです! 本当に大丈夫ですから」
と。郁と堂上の視線がかち合った。
堂上が口を開こうとした瞬間、目をそらした。
どう話してよいかわからなかった。
「さー! 今日もばりばりがんばるぞー!」
訓練も業務も巡回も、郁と堂上は一言も話すこと無く1日を終えた。
それは、お互いにお互いが遠慮しているかのようにひどく不自然で、痛々しく見えた。

お酒は苦手だ。
おいしいけれど、少ししか飲めない。
気持ち良くなって、すぐ寝入ってしまう。
飲みたくても止められてしまう。
……堂上教官に。
3杯目のカクテルを飲み干して、郁はため息をついた。
衝動的に入ってしまったバーは、図書館にほど近いビルの地下にある。
店内は意図的に明かりを絞っていて、ムーディな音楽も流れていて、居心地が良い。
あんなことがあったすぐ後に、こんな場所に1人で来るなんて、堂上や柴崎に伝わったら大目玉だろう。
(でも、飲みたい気分っていうのもあるわけよ!)
とにかく飲みたいなんて、初めて思ったけれど。
……堂上。
自分が考えている以上に、頭の中が彼に支配されていてまた涙が込み上げた。
痴漢よりも、堂上が知らない女の人と抱き合っていたほうがよっぽどショックだったなんて、どうして言えるだろう。
誰なのか、どういう関係なのか、なんて向こうから切り出されない限り、聞けるようなことじゃない。
「今日、やっぱり話せなかったな……」
堂上と話して、もうお前はいらない、と言われるのが怖くてたまらない。
そんな弱い自分を見せるのも好きじゃない。
もっと素直になれたら幾分マシなのだろうか。
「教官……」
目の前が少し揺らいだ。
(やば……飲みすぎたかな)
カウンターの椅子から転げ落ちそうになったところで、誰かに抱きとめられた。
「すみません……」
見上げた顔はぼんやりとしてよくわからない。
支えられるように背中に手を回され。
そこで郁は思考を手放した。

『堂上教官! 笠原見ませんでした!?』
堂上の携帯に柴崎が血相を変えて連絡を入れてきたのは、10時を回った頃だった。
「見ていないが……帰ってないのか?」
『それが一度戻ってはいるみたいなんですけど、全然連絡がなくて。携帯にも出ないし』
「わかった。思い当たる場所を探す。もう遅い。お前は寮から出るな」
『ちょっと教か……っ』
そう言って電話を切ると、堂上は急いで上着に腕を通して、寮を飛び出した。
……早まるんじゃないぞ。
そんな、縁起でもないことが頭をよぎる。
昼間馬鹿みたいに明るかった郁が、無理矢理そうしていることくらいすぐにわかった。
話そうと思えば腕ずくでもできたのに、しなかったのは郁に嫌われたのではないかという思いが邪魔をしたからだ。
あれだけ一緒にいるのに、不自然に避け続けた郁。
そう思われても仕方ないとさえ思った。
「堂上二正!」
図書館を出て、交差点に差し掛かったところで呼ばれて振り返る。
そこにいたのは、汗だくになった手塚だった。
手にはコンビニの袋が下げられている。
「……さっ、さっき、笠原が知らないヤツに車に乗せられてるの見かけて……追いかけたんですが見失いました」
すみません、こんなときに携帯忘れて、と息も絶え絶えに続けた。
恐らく走って堂上に伝えに来たのだろう。
すぐに想像がついた。
「どこに向かった!?」
「駅の近くの……っ、繁華街です」
頭が真っ白になりそうになる。
そんな場所に男と2人で?
何を考えているんだ、あいつは!
「堂上二正!」
信号が変わるやいなや、堂上は走り出した。
車で来れば良かった、などと思ったがとにかく今は走るしか無い。
繁華街はもう少し先だ。

「あ……れ……?」
定まらない視界に見慣れない天井が揺れた。
何度か瞬きして正常に戻った。
しきりの無い、大きな柔らかいベッド。
寮のものじゃない。
それはすぐにわかった。
どこかに似ている。
堂上と行ったどこか。
広い部屋に、大きなベッドがあって。
シャワーの音が心地よく聞こえて……。
「って、えっ!?」
ラブホテルだ。
そう思い立った瞬間、まどろんだ脳が目を覚ました。
どうしてこんなところに自分がいるのか。
思い出そうとしても頭がガンガンと痛みを伴って邪魔をする。
確かバーで飲んで、その後……。
「目が覚めたみたいだね」
突然した聞き慣れない声に、郁はビクっと体を震わせた。
見ればタオルを巻いた知らない男が立っていた。
濡れた金色の髪、揺れるピアス。
全く持って見覚えが無い。
「なんだ、覚えてないの? バーで失恋の傷癒してあげるって話、したでしょ?」
「えっ!? えっ!?」
いつそんな話をしたんだ、この男と!
自分自身に問いかけるが思い出せない。
逃げようと体を起こした瞬間、ぐらりと体勢が崩れた。
「おっと」
抱きとめられ、その感触にやっと思い出す。
バーでも同じように支えてくれた。
「あ、あたし! そんなつもりないからっ!」
「またまたー。ここまで来てそれはないでしょ」
ニヤニヤと笑うその口から覗く舌にもピアスが2つ煌めいた。
体に力が入らない。
まだアルコールは抜けてないのだ。
「やっ、やだ……っ!」
途端に怖くなった。
抵抗を忘れ、痴漢に良いようにされかけたことも思い起こされた。
「ね? 気持ちよくなろうよ」
息づかいを感じる距離に、身を震わせた。
恐怖しか感じない。
ふと堂上が頭をよぎる。
ああ、やっぱり自分にはあの人しかいないんだ。
「……きょ……かん……、堂上教官っ!」
バンッ! と、ドアを開ける大きな音がして誰かがバタバタと部屋になだれ込んだ。
「そいつを離せ!」
強い力で腕を引かれ、抱き寄せられた。
よく知った香りだ。
「悪いがこいつは連れて行く」
「なんだ、てめえっ!」
飛びかかろうとした相手を交わして、もう一度発せられたその声に。
「二度とこいつに寄るな。その時は俺も冷静じゃいられない」
息を飲んだ。
「堂上……教官……」
「アホウが。こんなところにノコノコついてきやがって」
そう言って郁の手を握り足早に歩き出す。
「待てよ、この野郎!」
振り返り様に堂上は男を睨みつけた。
その気迫に押され、男はへなへなとしゃがみ込んだ。
「行くぞ」
痛いほど郁の手を握りしめて、堂上はラブホテルを後にした。

ホテルを出てすぐに、堂上は柴崎に電話を入れた。
郁の無事と、そのことに対する手塚への伝言をして、通話を切った。
そして黙ってまた郁の手を引く。
なんとも声を発しにくい状況だ。
繁華街を抜け、人通りが少なくなった頃、先に口を開いたのは堂上だった。
「……ついていったのは、お前の意思か?」
「えっ?」
思わぬ問いに、一瞬言葉を無くす。
けれどすぐにそれを否定した。
「気づいたらあそこにいたんです。……あたし、お酒飲んで記憶無くて」
怒られる、そう思って身を竦めたが、返ってきたのはそうか、という一言だった。
沈黙が嫌で言葉を探す。
しかし思い当たったのはひとつしか無かった。
「……堂上教官は、あたしのこと、もう嫌いになりましたか?」
堂上が驚いた顔をして郁を振り返った。
「何を言っている」
「だって……」
言葉を続けようとしてそこで押し黙った。
抑えていた感情が涙となって溢れ出してきたからだ。
「男の人とあんなとこ行っちゃったし……っ、任された仕事もちゃんとできなかったし、それに……っ」
空いている左手で涙を拭った。
それでも途絶えることはない。
「綺麗な人と……抱き合ってたし……っ」
言うや否や、抱きしめられた。
おとり捜査の前に、会議室でそうされたよりももっと強く。
「すまない。言い訳をするつもりはない」
背中の腕に更に力が込められた。
「だが、信じて欲しい。お前を裏切るようなことは何もしていない。出来る訳ないだろう。こんなにお前のことが愛しくてたまらないのに」
郁の目尻に溜まった涙を、堂上は親指で拭った。
「傷ついたお前をこうして抱きしめてやれなかったのが苦しかった」
「きょう……か……」
言葉にならない声を出して、郁は泣きじゃくった。
郁の全てを包むかのように、堂上はそれを受け止める。
「こんな辛い思いをさせてすまなかった」
堂上の声に郁は大きく首を振る。
うまく喋れなくてただ泣くしかできなかった。
「今すぐにお前の全部を塗り替えてやりたい。だがそれではお前を傷つけるだけに思えて仕方ない」
きっとこれが、堂上の本心だ。
自分のことを本当に考えてくれる人。
どうしてそれを忘れてしまっていたんだろう。
「好き……っ、教官。好き……っ」
しゃっくりを交えて郁が言った言葉に堂上はやっと微笑んだ。
「俺も好きだ、郁」
まだ冷たい夜の風が、2人の間をすり抜けた。