燻った感情

空を見上げると一面の星空だった。スペルビアに到着するまでは薄暗い曇り空だったのに、いつの間に持ち直したんだろう。そんなこと考える余裕もないまま、自分たちは前へと進んでいんだ。仲間を助けるために。

「こんなところで寒ないか、ニア」

デッキで一人、空を眺めていたニアに艦内から出てきたジークが声を掛けた。

「別に。結構気持ちいいけど」

ニアの切りそろえられた髪と、赤い組紐が風になびいた。今二人が――いや、レックス一行が乗っているのはスペルビアの船だ。目的地はホムラの居るだろうモルスの断壁だ。そこできっと、いや必ずイーラと衝突する。大事な人を取り返すために。

「可愛くないのー。いっちょ慰めたるかって気合入れて来たんやけどな」

ジークはニアの隣に立つと、両手で手すりを掴んだ。カンッカンッ、と二度音がしたかと思うとすぐに風の中へと吸い込まれていった。
ジークが言うのはきっとエルピス霊洞での一件だと、想像がついた。ニアが自分の本当の姿を明かして、レックスが新たな剣を手に入れて。……なんて、大きなことがあったから、もはや触れて欲しくはなかったのだけれど。

「な、なにを慰めるって言うんだよ? アタシのことなんか放って……」
「泣くに泣けへんちゃうか、って思ったんやけど」
「っ……!」

ジークの細い目が、じっとニアを見つめた。図星をつかれたようでドキリとした。レックスがホムラを好きなことはもう周知の事実だ。レックス自身が鈍くて気づいていないだけで。だから、覚悟はしていた。彼がホムラを選ぶことはわかってたから。それでも前を向くなら、彼をこの先も守るなら、伝えなきゃって、伝えたいって思ったのは自分だ。それなのに、彼から返ってきたのは「俺も大好き」という言葉だった。「好き」の種類が違うことはわかってる。それでも彼らしくていいなって思った。嬉しいと、思った。本当に嬉しいと思ったのだ。

「あ……アタシが泣くわけないじゃん! やだなーもう、亀ちゃん。平気だよ、全然平気……」
「全然平気ぃーゆうヤツが」

ジークの手が、ニアの頬に触れた。無理矢理顔を動かされた先には、間近に迫った男の顔。

「ンな苦しそうなツラすんなや」

ニアは息を呑んだ。ジークの瞳に映るのは、今にも泣きそうな自分だった。たじろいで視線を泳がすと同時に、目の前が揺らいで、胸の奥が熱くなる。

「うわあああああーーーッ!」

堰を切ったように泣き出すニアの顔を、ジークは自分の胸へと押し付けた。この声はきっと船の駆動音に掻き消されて他の誰にも聞こえない。けれど、少しでも可能性は潰しておいたほうが良い。

「ニアがいい子なのはわかっとる。けどいくらなんでもいい子すぎや。弱音吐ける相手、一人くらい作らんとな」
「……っく、……っ、ビャッコがいるもん!」
「ウソつけ。ビャッコの前だってこない思いっきりは泣かへんやろ。アイツもお前が気ィ張りすぎやって心配しとんで」
「ううー……ッ」

誰かの胸でこんなに泣くなんてどれくらいぶりだろう。ジークの手のひらは、ニアの髪の上から下へと滑り、時折クシュクシュと弄ぶようにしてまた下へと流れる。そうする度、ニアの小さな耳がピクンと跳ねるように反応した。髪を撫でるジークの手が、頬に触れた熱い肌が自分の冷たくなった心を癒やしてくれる。レックスへの想いが伝わらかなかっただけじゃない。誰にも知られたくない過去、知られてほしくなかった本当の自分、そんな自分の身勝手で守れたはずの命が目の前で消える。消えようとしていく。
重くて苦しくて、見ないようにしていた現実をようやく受け入れることができた。それでもほんの少しだけ、後ろめたい気持ちがまだ小さく燻っていた。それをジークは見逃していなかったのだ。

「っ、か、亀ちゃんのくせにぃー!」
「おう、意外と見とるから気ィつけや」

悔しくてようやく言えた悪態もサラリと返された。それでも心は何だか温かかった。雲がかかっていた心の晴れ間が、もっと澄んでいくように感じた。ジークが燻っていた小さな気持ちを拾い上げてくれたおかげで。

「……モルスの断壁まではまだかかるやろ。それまで俺の胸貸したるわ」
「…………、……ありがと」

もう一つ悪態をつこうとして、やっぱりやめた。不覚にも感情を吐き出して、誰かにそれを受け止めてもらえることに心地良さを、安堵感を覚えていたからだ。
一人で抱えるのは苦しかった。過去も後悔も、淡い恋心も。

「……仲間って、いいもんだね。亀ちゃん」
「…………せやな」

誰かが辛い時には誰かが支えて想い合って。

「……ワイも弱音吐ける相手見つけんとな」

ジークが小さく呟いた言葉は、ニアの耳に届く前に風の中に消えていった。